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![]() [特集] 永遠に踊る舞踊家−崔玉珠 国家特級芸術家・崔玉珠女史を訪ねて “私がすべきことを全てはできなかったから、目を閉じるまではずっと踊らなくてはならない。” 中国国家特級芸術家(全国に 3人)で国務院から特殊手当金を受け、我が民族舞踊芸術の第1人者として指折り数 えられる崔玉珠(71歳)女史は、このように自分の余生を計画している。 私たち取材チームが崔女史と取材を約束した時間は夕方 9時半、崔女史が忙しい時間を絞り出して会った席だった。 現在、北京市通州区にある北京現代音楽学院で朝鮮族舞踊学校を運営している崔女史は、我が民族の舞踊芸術を全国に、 全世界に知らせるため最高の朝鮮族民族舞踊芸術家を養成するために心血を注いでいる。 学校を建てるために崔女史は自分の全貯金 150万元を投資、ベッド一つ、テーブル一つも置けばあまり身動きも出来ない 学校の教授宿所に居所を決めて、夜遅くまで舞踊研究に専念している。 去る 2001年 4月に立てられた北京朝鮮族舞踊学校では、現在在校生が 80人余り、今年は 40人余りが卒業するようになる という。優秀な学生たちを選抜するために毎年、崔女史は中国東北3省の朝鮮族学校を隅々まで回り、舞踊に才能がある学 生たちを直接選定すると言う。 そのためか学生たちは体格の良い美女ばかりなので、狙っている人々が多く、あまり外に 出したくないともいう。 70の高齢にもかかわらず、崔女史はコンピューターを扱いながら創作・構想して文書を自分で作成するだけでなく、体つき もやはり芸術大家らしい弾力性を保持していた。 崔女史は取材チームに爪先を真っ直ぐに伸ばすバレーの基本動作を見せてくれて、“ほら見て。私はまだ踊れるから”と言い、 私たちは驚嘆を禁じえなかった。 年よりはずっと若く見える崔女史の目は輝いており、穏やかな言葉の一言一言からは何とも 言えない迫力が感じられた。 16歳で延辺歌舞団に入団し、延々半世紀を越えて舞踊芸術に携わって来た崔女史は、我が民族の世界的な舞踊大家である 崔承喜(1911年〜1969年)先生の弟子である金京淑、金恵蓮、朴蓉媛先生たちから崔承喜舞踊の真髄を伝授され、ロシアの モスクワ大劇場クシェフ舞踊師からバレーの妙技を教えられた。 1980年代の初め、崔女史は日本で開催した “世界シルクロード音楽会”に参加し、日本の 21都市巡演をし、列島に旋風 を巻き起こし、朝鮮民主主義人民共和国の招請を受けて平壌、清津等で公演を開いたりした。中国政府から初めてオース トラリアに芸術団を派遣する時、 2人のメンバーのうちの 1人に選定され、 1988年ソウルオリンピック委員会で招待した 在外同胞 10人のうち唯一の公式的な中国代表で主席団に上がる栄誉を受けた。 今まで崔玉珠女史の獲得した大賞は、 国家級大型コンクールだけでもおよそ 7回、毛沢東、ケ小平、江沢民などの指導者たちの接見も受けた。 1990年、北京アジア大会アジア芸術節で、崔玉珠女史がシナリオ、振付と総演出を担当した大型創作舞踊劇 “春香伝” は断トツの 1等賞を受賞、次いで中国芸術の最高賞である中国文化大賞を受賞した。これにより “春香伝”は中華民族 20世紀権威作品に選定され、中国文化財として収録された。 崔玉珠女史が今後の計画としている芸術活動は、いずれも壮大なもので、聞く人が感嘆するほどだ。 今年 10月、韓国 ソウルで 3億ウォンをかけた大型歌舞夜会 “白頭山幻想曲”を公演、 2006年には “世界チャンゴ踊り祭”と崔承喜 の伝統舞踊を継承発展させる崔承喜舞踊学術発表会を開催、2007年にはまた世界的な “春香祭”を計画している。 崔女史の計画は 2008年北京オリンピック芸術節に我々朝鮮族の舞踊を披露して、民族の位相を世界的な舞台に披露する ということを一段階としている。 “いつまで生きているかは分からないが、北京オリンピック大会の時までは走り回らなければ”と言って崔女史は大型歌舞 “白頭山幻想曲”についての説明を加えた。 “我が民族の聖山であり母胎であり精気の源泉である長白山は、朝鮮族芸術家たちの永遠のテーマになる。 涙に濡れた豆満江、 鳳仙花、私の住んだ故郷、青い夢は一つに、などの部分に分けられる白頭山幻想曲は、長白山を主体に転入民族である我が 民族の歴史を見せ、日々に向上発展する民族のビジョンを見せてくれることに現実的な意義がある。 また朝鮮族が同胞の 脈を引き継きながら 21世紀の青い夢を広げる豪放にして優雅な芸術の極致を見せてくれている。” 故郷が延吉である崔女史は、取材チームとの対談でずっと延辺語だと称える咸鏡道方言を駆使、まるで奥座敷で老母の奥深 い話を聞くようだった。 遠くから訪ねて来た故郷人たちが嬉しいのか、崔女史は果物をいっぱい取り出して私たちが満腹 になりそれ以上食べられなくなるまで、しきりに勧めてばかりいた。 取材が終わり、夜の時間は 11時が過ぎた。 崔女史はかなりの距離だったが、正面の門の外まで見送ってくれた。 大門際 で手を振る崔女史の姿を遠くから見ながら、私たちは崔女史の健康を心から祈った。 (アリランジャーナル ジ・チョルホ キム・リョンパ ユン・ヒョンギュン記者 2005年6月18日)
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