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![]() [社会] 朝鮮族・柳燃山氏 “朴正煕の親日行為、延辺では誰もが知る事実” ▲ 満州軍予備少尉時代朴正煕の姿。(C) 朴正煕大統領インターネット記念館 朴正煕前大統領の日本軍服務時代の抗日部隊討伐行為をめぐる論難が再び起きている。 柳燃山朝鮮族自治州人民代表会の常務委員は月刊 ‘言葉’ 6月号に寄稿した文、で朴元大統領が日本軍服 務時代、 中国抗日部隊である八路軍討伐の先頭に立った ‘間島特設部隊’に服務したことは延辺歴史学界の 定説だと主張した。 彼は朴元大統領の勤務事実を証言する何人もの間島特設部隊出身者たちの証言を根拠に挙げ、朴正煕元大統 領の次女・朴書永さんに “死んだ父親の一つの歴史をもってごまかそうとせず、進んで自分の父親がどれだけ多 くの無実の人々を苦しめたかについて国民の前に謝罪しなければならない”と述べた。 事件の発端は去る 2月、朴書永さんが金サムウン独立記念館長とユ・ヨンシク図書出版アイフィールド社長を ‘死 者の名誉毀損’で告訴したことから始まった。柳委員の著書 ‘一松亭、青い松に先駆者はいなかった’にある内容 のうち、金館長とユ社長が一部を引用したが、この部分が朴元大統領についての ‘事実’と異なるという理由だ。 朴書永さんは朴元大統領が 1944年、日本の陸士を卒業した後、中国熱河省で勤め、間島朝鮮人特設部隊に入隊 した事実はないと主張して趙甲済の ‘私の墓に唾を吐け’と鄭雲鉉の ‘軍人朴正煕’ そして朴昌c延辺大教授の肉 筆証明資料などを証拠に提示した。 柳燃山委員は “91年発刊された ‘中国朝鮮民族足跡’ 第4集に掲載した ‘悪名高き間島特設部隊’という題目の文 で ‘朴正煕は間島特設部隊中隊長級の軍官だった’と書かれている”と明らかにした。 柳委員は引き続き “満州にいた当時、朴正煕は下っ端に過ぎなかった。 だからそれに対する歴史の記録を捜すと いうのは、空の星を取ってくれというようなもの”と言いながら “それだけ現代史研究において口述資料は重要な意 義を持つ”と主張した。 柳委員は 95年の取材途中、間島特設部隊出身であるジュ・ジェドクという人物から “熱河省で八路軍討伐をする当 時、朴正煕が (私の) 直接の上司だったし、八路軍に移ろうと思った時、彼も加わった”と言う証言を聞き、 同じ部隊 出身である安キワン、その外、特設部隊にいた人々から証言を確認した車サンフン氏も同じ発言をしたと主張した。 朴書永さんが訴状で立てた証人についても、柳委員は信頼することができないとかむしろ親日行為を立証するだけだ という立場だ。 柳委員は “(朴書永さんが証人に立てた)朴昌c教授も車サンフン氏が書いた朴正煕特設部隊と係わ る文を ‘中国朝鮮民族足跡’ 叢書に載せたところから見て、その説に同意したと見られる”と主張した。 これとは別に歴史とは分野の異なる語文学部教授の崔ヨンリン延辺大学副教授と企業人である李ドンマン氏の陳述は むしろ朴書永さんに ‘不利’になるかも知れないと指摘した。 柳委員は朴さんの名誉毀損の主張自体に対しても “朴正煕の親日はその部隊の所属が変わるからといって、否定 的に解釈されるものではない”と言いながら、理解に苦しむという反応を見せた。 “朴正煕が特設部隊にいたと言うこ とを名誉毀損というなら、朴正煕が他の日本軍にいるのに抗日軍討伐をしたのは名誉なことだと言うことになる、と朴 さんを強く批判した。 間島特設部隊は、日本が 1939年 9月 15日、満州西南部と中国北部に投入する目的で作った ‘朝鮮人部隊’であり、 少数の日本人幹部を除き大部分が朝鮮人だった。 中国側の調査によれば、間島特設部隊は東北抗日連軍と八路軍 を相手に合計 108回戦ったが、朝鮮人の功績評価には慎重な日帝自らも “精鋭の評判が高く、討伐功績が大きかった ”と言うほどに力強い部隊だった。 (デイリーサプライズ ペク・マンソク記者 2005年5月31日)
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