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[特集] 中華民国時代のハルピン朝鮮人

“朝鮮語が上手ならば沿海地域で歓迎される”と朝鮮族職業学校ブーム



中国で辛亥革命が起き、清政府を覆して 1912年 1月 1日に中華民国が建国した。この時から 1931年の 9.18事 変まで、中国の東北は 20年余りの間、軍閥統治を受けて来た。 東北軍閥政府は、朝鮮移民は日本帝国主義の “手先”であり、“うるさい存在”であり、 “日帝東北侵略の口実になる”という誤った認識で、朝鮮移民に対 して帰化入籍を強要、民族差別視と民族同化政策を実施した。 甚だしくは日本と結託して朝鮮人の反日運動を血生 臭く弾圧し、朝鮮移民に迫害を加えて追い出す政策を実施した。 しかしこの政策は商業貿易都市と東清鉄道付属地 では除外すると規定した。 そのためハルピン市の朝鮮人はずっと増加傾向にあつた。この時期、ハルピン市の朝鮮 人人口は 1910年の 268人から 1921年には 691人になり、1925年 10月には 962人、1931年には 1557人に増えた。

この時期、ハルビンの朝鮮人人口は多くないが、ハルビンの地理的位置で見たり、交通状況で見ると、北満の朝鮮人 の居住中心地域だった。 特にロシアがハルピン市と中東鉄道沿線の殖民統治権を持っており、中華民国政府もハルピ ンに同省特別区を設置した特殊ナ地域だった。 そして日本はハルピンに総領事館を設立し、その下に警察と特務機関 を置いて朝鮮人の反日闘争を抑えた。こんな環境でハルピンは朝鮮独立活動家たちの亡命地のひとつであると同時に、 反日闘争の戦闘地の一つだった。独立運動系列の反日団体と共産主義系列の反日団体が皆ハルピンを中心に反日革命活動を展開した。

この時期、ハルピンの朝鮮人移民は三種類に分けられる。

第一に朝鮮の “日韓併合”に反対する愛国者と “3.1運動”後、日本帝国主義の苛酷な弾圧で亡命し、ハルピンへ来た 人々だ。 1905年、日本は韓国を脅迫して “乙巳保護条約”を結び、韓国の外交権を剥奪した。1907年、日本は韓国軍隊 を解散させた。 1910年 8月には“日韓併合条約”を結んで日韓併合を宣布した。 独立国家である大韓帝国は日本の植民 地になり、 3千里の錦繍江山は人間地獄に変わった。 この時から日本は韓国をまた朝鮮と呼び、韓国人を朝鮮人あるいは 鮮人、鮮系, 半島人と呼んだ。1919年 3月 1日、朝鮮人民たちは全国的な反日独立運動を起した。 日本帝国主義者たちは 正義を叫び侵略に反対して独立自主を要求する朝鮮人民を弾圧した。 惨めな虐殺を避けて多くの愛国者たちが中国にまた ハルピンへ避難あるいは亡命して来た。

ハルピンで出版する中文 “遠東報” 1919年 4月 4日付の新聞は、 “韓民、ハルピンへ避難する”という題目で “朝鮮 各地で独立宣言を発表した後、日本はこれを暴動と認めて武力で干渉したが、騒乱が続いて起こり、一般の韓人たちは 塗炭の苦しみの中で耐えることができなくて幼い者を連れ、老いた者を支えてハルピンに避難して来た。 上級社会の人 々は各旅館に隠居する者が多いと言う。”と報道した。 “遠東報” 1920年 4月 18日付の新聞には、 “韓人の北への移 住がますます多くなっている”と言う題目で “近日、南側から幼い者を連れ、老いた者を支えて汽車に乗ってハルピン に来る韓人たちがますます多くなっている。 どうしてこのように北へ来るのかと聞くと、すぐに、韓国で戦争による災難 が起きたので、中国へ来て土地を与えてもらって農業をしながら避難しようと思うと答える”と報道した。

ハルピンに来た亡命家たちの中には、独立運動家系列の金ドンサム、南ジャヒョン、金マンスなどがおり、共産主義系列 の反日革命家・韓アクヨン、李チュアク、ヤン・リム、許ヒョンシク、洪ナムポらがいた。 彼らは高い愛国心と自分の生 命を投げ出して捧げる気高い犠牲の精神で、ハルピンはもちろん、東北に居住している朝鮮人たちを動員組織して反日独 立運動を指導した。

二番目に、ロシアに住んだ朝鮮人たちが集団化の苦役を避けて黒龍江省の東部辺境を経てハルピンへ移民して来た。早く も 1884年に、韓国がロシアと国交を樹立することで、朝鮮人のロシア沿海州への移民が合法化された。 ロシア政府は移 住朝鮮人をロシアの帰化人として扱い、土地を分配してくれて法的にロシア人と同等な待遇をしてくれたから、ロシアへ の朝鮮人移民が急激に増加した。ロシアがこんなに優待政策を広げたのは、未墾地である沿海州を朝鮮人の労動力で開拓 しようとする意図があったからだ。 したがってロシア政府は移住朝鮮人を集団的に居住させて開墾に投入させ、開墾が終 わればまた、まだ開墾されない北に移住させた。

特にソ連10月革命の後、農民たちの集団化されることで生活自由の拘束を避けて東部辺彊である饒河、虎林、密山、 東寧、穆陵県にたくさん移住して来たし、ハルピンにも移住して来た。 こんな実情に対して民国 19年(1930年) 、“ 吉林省 3人委員会の韓人入籍問題についての処理意見”と言う文件に “東寧県の報告によると、綏芬河を経てハルピン に行く韓民たちがいる。省政府の制止令があるが、完全には防げない”とある。解放前のハルピン第一の金持ち として有名な韓グァンスクは、ロシアのウラジオストクで生まれ、1929年にハルピンに引っ越して来た人だ。 彼らの後代た ちが今もハルビンにたくさん住んでいる。

三番目にお金儲けを目的に各地から来た人々だ。 20年代、ハルピンは “国際都市”として急速に発展した。 ハルビン にはロシア人、ドイツ人、イギリス人、アメリカ人、フランス人、日本人など外国人たちの立てた商社が 2000社余りあった し、世界 40ヶ国と地域と商業貿易関係を持っているなど、ハルピンの経済は “黄金時代”だった。 だからお金儲けの景気が 良くて、朝鮮人たちもハルピンに集まって来た。

彼らは一般的に中国政府の法的拘束を受けず、活動能力が強くてお金儲けなら何でもやった。 甚だしくは秘密裏に阿片商 売までもした。 “氷江市報” 1928年 10月 20日付けの新聞、“韓人阿片店一軒を捜索”と言う題目に “道里石頭道街の 韓人婦女金ケサムは若い女性で英語、ロシア語、中国語など多くの国の文字をよく知っている。 彼は中国人王氏の妻の 阿片店を経営して家庭生活が豊かだった。 昨晩 9時、中国人阿片店がしばらく阿片の大箱を洗っている時、警察が突入 し、阿片を吸う道具を没収してお客 7、 8人と韓人夫婦を警察所に連行し、法によって処理するようにした”と報道した。

1928年 11月 6日の新聞には“ハルピン特別区域での阿片商売人の多数が朝鮮僑民と日本の失業者達だ”として、“法によっ てつかまえて日本総領事館に突き出せば、すぐに後門で釈放して警察が戻って来る前に犯人が先に家に来ている”と報道した。

ハルピン市の朝鮮人は道里の高麗街(今の西八道街)を中心に、その近所にたくさん暮していた。 “満州国地名辞典”に記載 した 9.18直前のハルピン市の朝鮮人は 340戸、1,405人なのに彼らの営業別内訳を見れば、旅館 4人、飲食店 6人、料理店 12人、 酌婦 85人, 出版 1人、 精米業 3人、医者 5人、 開業病院 1人となっている。 もちろん残りは営業をしない職員 たちや労動者たちだ。

ハルピン市で営業をするということは、物売りをする労動者と違い、決まった資本があるということを意味する。 しかし 朝鮮人たちの営業別を見れば、大きな企業はなくて皆、小生産者たちだった。 今で言えば小業主であり、生活はあま り富裕ではなかった。     

(黒龍江新聞 ソ・ミョンフン記者 2005年5月14日)
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