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[教育] 中 黒龍江省渤海遺跡地、復元現場を行く


▲渤海の皇帝が住んだ上京城の第三宮殿跡。碑石の後ろに見える基礎は東北工程が推進されている最近に復元されたものだ。

荒涼とした満州の原野で ‘忘れられた帝国’を見つけた。 1,000年前の宮殿と寺は消えたが、 宮殿を支えた一抱えほどの礎石は揺らぎもせずに根付いていた。 寺の跡に残っている渤海の石燈と仏像は、 海東盛国の栄華を物語っているようだった。

◇眠りから覚める渤海=先月 25日、成均館大大同文化研究院 ‘渤海デジタルコンテンツ化事業チーム’ と共に訪ねた渤海の昔の都・上京城跡は、ようやく初春を迎えていた。 中国吉林省延吉から北へ自動車で 4時間も走って到着した黒龍江省寧安市の渤海鎮。北緯 44.5度という地理的位置を実感するほどに、小川の ほとりにはまだ溶けない氷が厚く被っていた。

一抱えの礎石そのままに

寧安市西南の方 35km 地点に位置した渤海鎮は、渤海の三番目の都・上京城があったことで付けられた名前。 道路のあちこちに設置された ‘渤海国国城遺址’という立看板が、昔の王宮跡であることを知らせる。楊柳が並 んでいる上京城の外城を経て城の中に入り、少し経つと巨大な城壁が目の前に現われた。‘渤海国上京龍泉府遺址’ という碑石の後に立っている宮城の南門(正門)だった五鳳楼。 復元された南門の基礎部分だけで高さ 4.2m、長さ 40m、幅 26mというから、推量すれば宮廷の威容の見当をつけることが出来る。基礎の上には直径が 1m になる 丸い礎石 50個余りが四列に配列されていた。


▲昨年の上京城発掘当時、発見された宮城伽藍の礎石。木の間の八角形の建物が渤海の井戸を復元した‘八宝琉璃井’だ。

五鳳楼の左右にある門を通ると、よく整備された畑が拡がる。まだ種を撤いていない土地。しかしそれは畑ではなく 宮殿の跡だった。畑の後に第1、2、3、4宮殿の建物跡が続いた。

去年4月、上京城宮城整備に取り掛かった中国政府は、11月までに1次整備を終え、冬季以後整備を中断している。 4つの宮殿跡は既に整備が終わり、渤海時代の宮廷井戸‘八宝琉璃井’も綺麗に整えられていた。しかし宮廷中あちこ ちに暴かれた伽藍跡とそこで拾った石ころが積もっていて、以後も発掘が続くことがすぐ判る。渤海遺跡を案内した 延辺朝鮮族作家のユ・ヨンサンさんは“(中国は)今年の内に上京城発掘・整備を仕上げた後、来年中に世界文化遺産 に登録する計画を持っている”とし、“天気が和らぐ5月中にはまた整備に入って行く”と言った。

渤海王宮跡地の中で興隆寺境内に残っている渤海石燈と石仏は、渤海文化遺跡の象徴だ。玄武岩を削って作った石燈 (高さ6m)は、蓮華文様などで渤海の建築芸術をうかがうことができる。石燈のすぐ後、三聖殿に安置された石仏 (高さ3.3m)は、原型が損傷されているのが残念だが、渤海の歴史を証言する唯一の石仏だ。

◇中国風の好みに合わせた整備・復元=問題は上京城など渤海遺跡の整備・復元が任意になされているという点だ。 上京城南門の外には唐の長安城をそのまま真似た渤海宮城復元鳥瞰図が立てられている。渤海を唐の地方政権と見る 中国の視覚を端的に見せてくれる。先に遺跡を見回った宋キホソウル大教授は、“渤海の独自性を無視して見ると中 原では見られない、渤海オンドル施設(第4宮殿跡)の場合、オンドル全体ではなく煙突施設だけ修復してある”と批判した。

“来年中に世界遺産登録計画”

中国人学者だけで秘密裏に行っている発掘・整備も問題だ。特に韓国人の出入りは徹底的に統制される。上京城宮城 の入口には‘現場を発掘するため、参観を謝絶する’と言う韓国語で書かれた表示板が立てられている。上京城だけ ではない。上京城と共に世界遺産登録を申請する吉林省の西古城(和龍市)、八龍城(琿春市)、六頂山(敦化市)のよう な渤海遺跡にも、まだ一般人は近付くことができない。今回の踏査チームは渤海武王の娘・貞恵公主の墓が発掘された 敦化の六頂山を踏査しようと思ったが、警備が厳しいという話に遠くから眺めることで満足しなければならなかった。

◇放置された渤海遺跡たち=中国の渤海遺跡整備は徹底的に世界文化遺産登録に焦点が合わせられている。こうして見 ると、上京城、西古城、八龍城、六頂山古墳群など、登録予定地以外の遺跡は放置され、毀損されて行っていた。案内 表示もなく、現地住民たちさえ渤海遺跡地がある場所が分からない場合がほとんどだった。

渤海の初の都である吉林省敦化市。ここには渤海の初の王城として知られた敖東城と城山子山城、江東24礎石、永勝遺跡 などが残っているが、遺跡案内板一つなく、専門ガイドなしには訪ねにくい。

貞恵公主の墓も警備三厳

窮屈で汚い横町に沿ってやっとたどり着いた敖東城遺跡地は、民間で捨てた食べ物・生活ごみの中に放置されていた。 1981年に吉林省政府でハングルと中国語で並んで立てた碑石がなかったら、誰も渤海遺跡地とは判らないほどだった。 敦化市内を流れる牡丹江の東に位置した江東24礎石は、直径 40〜80cmの石 24個が 1〜2m 間隔で列をなしている渤海の建 築遺構。 しかし遺跡を保護するための鉄柵はひどく錆がつき、鉄柵の中には紙くず、工事現場廃資材などが散らばってい た。 それにこの遺跡は鉄道、地下車道の建設にともなう道路拡張により移転される危機に瀕していて、切ない気持ちになる 。 工事現場の人足によると、住宅街の方へ 10余m 移転されると言うが、遺跡の性格から見て、原型毀損は不可避であるように見えた。


▲興隆寺境内に立つ渤海石燈    ▲韓国語等3ヶ国語で書かれた立ち入り禁止の表示板

2001年、東北工程を推進した中国政府は、集安・桓仁地域の高句麗遺跡の整備を完了したのに続き、渤海遺跡に対する 整備・復元に取り掛かった。しかし中国の渤海遺跡整備は学問的研究を土台にした完全な復元ではない。渤海が中国の 歴史であることを広報するための政治的復元という感じを消すことができなかった。成均館大博物館・金ジョンボク学芸 士は“高句麗に引き継がれた渤海遺跡の整備は、高句麗が中国史ならば渤海も当然中国史という認識を植え付けるための ものらしい”と“韓国・北朝鮮の学者たちを参加させて渤海歴史・文化に対する体系的な整備・復元がなされなければなら ない”と述べた。   

(京郷新聞 チョウ・ウンチャン記者 2005年5月3日)
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