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[社会] 金日成秘史伝える朝鮮族抗日闘士・李敏女史



李敏(81)女士は10年間黒龍江省省長を勤めた陳雷(90)の夫人で朝鮮族だ。 12歳で抗日運動に身を投じ、北朝鮮の金日成主席が属した東北抗日連軍で武装闘争に参加した。1942年から 45年まで3年余りの間、金日成・金貞淑夫婦、金正日と共に当時のソ連領ハバロフスク隣近、ブヤーツク村の ソ連軍野営地で88特別旅団に編入された。李女史はここで金日成、崔庸健、安吉、姜健、崔賢、金一、崔光ら、 後に北朝鮮政権の核心となるパルチザン隊員たちに会った。李女史は後に黒龍江省政協副主席にまでなった。

李女史はハルピンの自宅で行われたソウル新聞との単独インタビューに、始終老戦士らしく真直ぐな姿勢を崩 すことなく60年以上も前の事にも正確な記憶力で周囲を驚かせた。

●1942〜45年まで金日成夫婦と活動

李女史は金日成がソ連軍の命令に従って北朝鮮リーダーに擁立されたという一部の歴史学者たちの主張に反駁し た。李女史は“当時、88旅団内で崔庸健や金策らが金日成より上級者だった。彼らは解放後の闘争の方向と進路 を模索する内部秘密会議で金日成をリーダーに決めた.”と打ち明けた。

当時ソ連は、解放後の中国と北朝鮮の共産勢力拡大に没頭していた。そんな渦中に88旅団のソ連側の責任者が ‘朝鮮人の中で誰をリーダーにするつもりなのか.’と聞いて来たと言う。崔庸健らは秘密会議で‘金日成の軍事的 ・政治的能力が卓越しており、年も私たちより若い。彼を私たちのリーダーにしなければならない。’と推戴理由 を説明したと回顧した。

●文学的才能が豊かだった金日成

金日成は88旅団時代‘団結舞’という歌舞劇を直接作って朝鮮人の部下たちと共に公然と歌まで歌ったと言う。 李女史は“情熱的で活達だった金日成は、相手を楽にさせてくれたし、文学的才能も豊かだった”と言った。 李女史は当時、金日成が直接作詞したという‘思郷歌’をまだ憶えていた。“私の故郷を離れる時、母が私の 手を握って涙流しながら、元気に行って来なさいとおっしゃったお話。ああ耳に響くようだ…”という歌だが、 当時の朝鮮人戦士たちの間ではかなり有名だったと言う。

●金日成が結婚仲人

金日成とのエピソードのうち、欠かすことができないのが結婚の仲人の件だ。当時、李女史は中国人・陳雷との恋愛 に落ちていた。陳雷は自己批判と共に共産党から除名された状態で、朝鮮人の同志らも李敏の将来のため、地主出身 である陳雷との結婚を引き止めた。

しかし二人の関係を単純な恋愛ではない‘革命的同志の結合’という金貞淑の話を伝え聞いた金日成が、中国人指導 部を説得、電撃的に結婚を成功させた。1943年の大晦日、李敏夫婦は電撃的に結婚式をあげ、この日、崔光・金玉順夫 婦も百年佳約を結んだ。李敏夫婦は北朝鮮政府の招請で平壌を何回も訪問し、金日成主席と金正日総書記の歓待を受け る格別の関係だった。92年に平壌を訪問した時、金日成は午前9時から3時間の間、通訳なしで彼らを単独接見した。

●金正日は戦争ごっこを楽しんだガキ大将


▲去る92年、平壌を訪問した李敏(右側)女史が金日成主席、主人の陳雷黒龍江省省長と共にポーズを取っている。

李女史は金正日総書記との初の出会いを42年秋と憶えている。“42年秋、産着に包まれた赤ん坊の金正日を初めて見た。 それ以後45年8月15日まで、金正日の成長過程を見守った。”と明らかにした。

当時、李女史は通信大隊に勤務、上官である崔庸健によく会った。当時、崔庸健は金日成のような幕舎を使ったと言う。 幕舎に行けば、たまに幼い金正日に会えたが、肌が黒く、背が小さくて賢かったことを憶えている。“金正日はお父さん の大きな帽子を被って木銃を持って軍隊ごっこを楽しんでいた。大きな帽子のため目が覆われたまま走り回った姿が可愛 かった。彼は誰にも心安く声を掛けたし、幕舎にお客さんが尋ねて来れば中国語と韓国語でかわるがわる‘ママ、パパ’ を歌った。”と回顧した。

45年8月15日、日本の降伏宣言が伝わり、興奮のるつぼとなった。パーティーが開かれ、興じて万歳を叫んでいるのに、 普段ズボンをはきたがらなかった金正日が、この日だけは自らズボンを探して着て、同じ年齢の幼稚園児たちを導いて 戦線へ行かなければならないと我を張り、周りで爆笑したりした。

94年7月20日、金日成主席葬礼追悼大会が終わった直後、李敏夫婦は金正日総書記に会った。

“うちの夫婦が弔意を表すると、金正日総書記はこれからもこれまでのようにたびたび訪問してくれと言った。その 席で自分も知らず知らず金委員長の手を掴んで頬に当てる無礼を犯した。昔の金貞淑同志の顔と金委員長の幼い時の 姿が浮び上がったからだった。”と回顧した。金委員長の陳雷夫婦接見写真は異例的に労動新聞に公開された。李敏 夫婦は98年9月、共和国建国50周年に再び招請を受け、27日間北朝鮮に泊まった。

●満州抗日戦士、李敏

李女史の抗日闘争は、韓国の歴史の本に空白のまま残っている30年代の満州抗日運動をいきいきと証言する。

朝鮮の左翼系列は1928年、コミンテルンの‘一国一党路線’に沿って中国共産党の旗下に入り、彼らと共に東北 抗日連軍を創立した。この部隊には朝鮮人が多く、45年以前、当時1000人余りのうち300人余りが朝鮮人だった。

李敏は中国人・李兆麟将軍が総司令である3路軍の下の部隊で活動した。東北抗日連軍は何回にもわたる組職改編の あげく、活動地域によって1路軍(東満州)、2路軍(吉林省東部)、3路軍(北満州)に再編される。当時、金日成は1路軍 第2方面6師長(大隊長級)で日本軍によって東北抗日連軍が瓦解した41年前後に上級者たちが大部分死亡、指導的位置 に上がった。崔庸健は2路軍、金策は3路軍所属だったが、金日成より年はもちろん職責も高かった。

1924年、黒龍江梧桐河で生まれた李女史は、親の故郷である黄海道沙里院近隣に住んでいる時、鴨緑江を渡って黒龍 江三江平原に定着した。抗日武装闘争の過程で父と兄が死亡し、陳雷は兄と懇意な戦友だった。


▲去る2001年、李敏(左側)女史が夫である陳雷(右側)黒龍江省の前省長を見舞いに訪れた。当時常務委員だった胡錦 涛中国国家主席が、夫と握手するのを見て笑っている。

李女史は崔庸健が立てた模範小学校で勉強をしている途中、12歳の時、父に付いて武装闘争の部隊に入って行った。 彼女は初めは遊撃隊員たちの炊事補助員、看護婦など非戦闘員として抗日闘争を始めた。李女史は小銃や機関銃射撃は もちろん、乗馬にも慣れ、完全な戦闘員として任務を忠実にやりこなすことができたと回想した。

37〜38年頃、日本軍の討伐攻勢が激しくなり、松花江流域、三江平原一帯や密山、完達山等で大きな戦闘がよく起った。 3路軍は騎兵隊が主力である日本軍に対立して、樹木が鬱蒼とした三江平原の沼地に退却する遊撃戦術を展開した。

1938年夏、完達山戦闘では300人余りの部隊員のうち、わずか60人余りが生き残った。当時日本軍は軍人と開拓団数千名を 動員、同西南3面をかこんで孤立戦術を展開した。徐々に狭まって来る包囲網の中で、6日間水一滴も飲めず、飢えた。

結局、北の絶壁から脱出を試みたが、かなり多くの数が絶壁から落ちて死んで行く中、包囲網を脱出した。李女史は “日本軍の鉄砲に撃たれて死に、飢えて死んで行った戦友たちを思えば、今も涙が流れる。”と回想した。日本軍は 30年代末、焦土化作戦を展開しながら、遊撃隊が隠れるに値する山林を片っ端しから燃やし、根拠地を封殺した。飢 えと寒さは何とか耐えたが、日本軍の狡賢い帰順作戦に心理的動揺を起こした戦友たちの裏切りが一番辛かった。李 女史は最後まで抵抗し、彼女が属した3路軍は41年、国境線を超えて昔のソ連領に入って行った。陳雷夫婦は文化大革 明(66〜76年)当時、反動の嫌疑により拷問に遭い、投獄されたりしたが、ケ小平の実権掌握と共に復権した。

●李敏女史は、1924年、中国黒龍江省梧桐河で生まれ、12歳の幼い年に父に付いて満州で抗日運動に身を投じた。 1942〜1945年、金日成主席と夫人・金貞淑ら北朝鮮の核心人物達と88特別旅団で活動し、格別の縁を結んだ。中国 人地主出身である陳雷との結婚式の仲人を金日成主席がするほどだった。1960年代、文化革命当時、反動の嫌疑を かけられた後、復権、夫陳は後に黒龍江省省長を10年間務め、李女史も黒龍江省政協副主席を歴任した。

■薛勲・前議員に会った李敏女史

[ハルピン オ・イルマン特派員] “祖国の独立のために満州原野で名前もなく死んだ抗日戦士たちのためにも、 必ず統一がなされなければなりません。”

陳雷(90)前黒龍江省省長の夫人であり、政協副主席を務めた李敏(81)女史は、金大中前大統領を代理して‘統一陶磁器’ を受け取るために尋ねて来た薛勲・前議員をにこやかに迎えた。

抗日東北連軍で10年近く死線をさまよいながら独立運動をした李女史は、去る2000年、歴史的な‘南北6・15共同宣言’ を伝えて聞き、何日もの間、嬉しさに浮き立っていたと言う。

李女史は“2002年6・15宣言2周年を迎え、統一を祈る‘統一陶磁器’2個を作り、そのうち一つは金正日北朝鮮総書記 に送ったが、金大中先生に伝達する方法が見つからず、切なかったが、やっと願いがかなった。”と喜んだ。

金前大統領の代理人として統一陶磁器の伝達を受けた薛勲・前議員は“李敏女史の統一意志を高く評価し、残った余 生の間、南北韓の平和的統一のために努力する、という金前大統領のお言葉を代わりに伝えます。”と言った。

李敏女史が寄贈した統一祈願陶磁器は、金大中図書館に展示される予定だ。


▲李敏(右側)女史が金大中前大統領の代理人の資格でハルピンを訪問した薛勲・前議員に、南北統一を祈る意味 で金前大統領と金正日総書記が握手する写真が入っている‘統一陶磁器’を伝達している。   

(ソウル新聞 オ・イルマン記者 2005年4月28日)
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