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[文化] 姜敬愛の延辺龍井生活11年

1930年代、延辺・龍井では女流作家・姜敬愛(カン・キョンエ)が活動していた。姜敬愛は1931年春、 龍井に第一歩を踏み入れてから1942年に病没するまで、延々11年、輝かしい創作活動を 展開した同胞の著名な女流作家だ。

姜敬愛は北朝鮮黄海道の松禾出身だ。生年月日も1907年〜1943年という説と、 1906年〜1944年という説の二つがあり、恵まれない暮しの中で父が姜敬愛4歳の時に 死亡、病んだ母は翌年、生活の道を求めて黄海道長淵のチェ・ドカムの後妻に入る。

1913年、8歳になった日、姜敬愛は“春香伝”でハングルを覚えて古代小説を読むよう になった。その頃既に近所の人々から招かれては小説を読んであ げたり、“どんぐり小説長”という珍しいニックネーム を持つようになったと言う。どこに行っても貧乏だったが、十歳になる1915 年には青年学校を経て長淵小学校に入学、後には義理の兄の助けで平壌崇義女学校に入学、中退、ソウル の同徳女学校に編入して約1年間修学。

その頃1923年3月、日本早稲田大学予科卒業生の梁柱東が故郷の 長淵に帰って来て 、早婚による結婚を破棄した。梁柱東は反封建思想を叫び、講演した時代で、文学的資質が高く評価された 時代だから文学徒姜敬愛の崇拝の対象になるには充分だった。遂に姜敬愛は梁柱東 と1年間同棲するようになり、女性に封建的な生き方と宗教生活を強要する学校教育に 反対する同盟休学へ加わるようになったといわれる。平壌崇義女学校を退学したのも、 まさに同盟休学のためだった.また梁柱東との同棲生活で画期的なことは、詩を楽しむ 姜敬愛に小説を書くように勧めたということだ。 1年が経って姜敬愛は梁柱東と別れた。

姜敬愛はソウル同徳女学校3年生として1年間修学している途中、1924年9月に帰郷し、 夜学運動、新幹会など多くの社会運動に身を投じたと言う。姜敬愛が生活の道を求めて 豆満江を渡り、延辺の龍井に第一歩を踏み入れたのは1931年春だった。

姜敬愛は自分の随筆“故郷の蒼空”の冒頭でこう書いている。

“私の故郷を発ってからもう3年になる。その間、故郷には多くの変化があったはずだ。”

この文は1935年5月“新家庭”に掲載したものである。 姜敬愛は“新東亜”1934年7月号に載せた随筆“豆満江礼賛”では、自分の初の延辺行きを一目瞭然に明かす。

“私が初めて豆満江を見たのは1931年春。いよいよ新緑が輝こうとする季節だった。 私は車窓にもたれて豆満江を眺めた。”

これを見ると女流作家・姜敬愛の初の延辺行きは1931年春に間違いないようだ。

姜敬愛は1931年に短編“破琴”と中編“母と娘”を発表、文壇にデビューして1938年まで21編の小説、 2編の長編連載小説、 24編の随筆と7編の詩、 3編の平文を残した。なかでも長編小説“人間問題”は、 1934年“東亜日報”に120回にて連載され、当時の社会の人間関係を大胆に扱った作品だった。

特筆すべきは姜敬愛の夫・張河一だ。張河一は長淵で姜敬愛と結婚し、 龍井に移住した後、ずっと東興中学校の数学教員、教導主任として勤めた。 1934年の東興中学校校長は、早くから朝鮮共産党満州総局の傘下で活躍したリム・ケハクで、 教員は張河一ら6人だった。教材は日本文部省で検定して朝鮮総督府で編纂した教科書を採用したが、 張河一ら教員たちは相変らず一切の校内外行事や教授用語ではハングルを使った。 1939年6月に 東興中学校の全学生が7日間の同盟休学を断行し、龍井総領事館の密偵・キム・ホヨンをつかまえて 懲らしめる時も、張河一は先頭に立った。

張河一は後に帰国して“朝鮮日報社”総編集を引き受けたというが、光復の後には北朝鮮黄海道委員長、 労動新聞副主筆として活躍した。

反日精神が強い夫の影響により、姜敬愛は龍井に移住した後、社会活動でも頭角を現わした。

1933年11月に龍井光明学院 師範科の教員リ・ジュボクなどによって文学同人団体“北郷会”が 組職された。しかし姜敬愛は健康事情で北郷会で活発な活動を展開することができなかった。 今まで知られているところによれば、平壌崇義女学校の中途退学と恋愛事件で、学費を貸して くれた義理の兄から頬を殴られ、姜敬愛は耳に怪我をしてしまった。 1932年6月とその年末に 帰国したのも中耳炎のためだった。

延辺・龍井時代の姜敬愛は、他人に女流作家ではなく“暮し向きに熱心な地味な妻”に見えたらしい。 それでも姜敬愛は夫の張河一と共に堅実な反日思想で真面目に生き、文学創作に熱中したが、 いつも健康が優れず苦しんだ。

1939年、姜敬愛は朝鮮日報“間島”支局長を歴任しながらも、不遇な環境の中でも作家生活に打ち込んだ。 それでもこの女流作家は、悪化した健康をどうすることもできず、1942年に夫・張河一と共に帰国し、 1944年4月26日に病気にて夭折した。

このように姜敬愛は病気に苦しみながらも家庭の主婦として文学創作に精進したが、日本の検閲と 劣悪な出版事情にあったため、生涯の中で作品集一冊すら出版することができなかった。 1949年に 朝鮮労動新聞社によって姜敬愛の長編小説“人間問題”が初めて単行本にて出版され、姜敬愛は 一躍、同胞の代表的な作家として浮上した。

引き続き延辺人民出版社で労動新聞社の1949年初版により、1957年6月に“人間問題”を出版、 朝鮮作家同盟出版社の1959年4月初版により1979年10月に第2版を出した。 1999年8月8日には 延辺の龍井市の碧岩山に“女性作家姜敬愛文学碑”が立てられ、中国での姜敬愛研究がさらに盛んになった。

こうしてみると、姜敬愛は1930年1月の金佐鎮将軍暗殺とは何らの関連もないことが簡単に判る。 延辺朝鮮族文化発展推進会の姜敬愛是是非非サイバー討論と強い反対論議、韓国のリ・サンギョン などの知識人たちによって去る1月中旬以後、2ヶ月間搖れた女流作家・姜敬愛の名誉は、原状回復された。 韓国で姜敬愛は相変らず2005年“3月の文化人物”として浮上している。

女流作家・姜敬愛よ、道に光あれ!        

(黒龍江新聞 リ・ハム記者 2005年3月19日)
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