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[文化] 30年代‘映画皇帝’と二人の女性のロマンス

朝鮮族・金焔と王人美の波乱万丈の人生遍歴

最近、中央テレビジョンの‘人物’という番組で、‘流れる歳月の影−去りし映画ス ターに対する思い出’を放送した。この番組で中国映画史で著名なスター、金焔(キム・ヨム)を紹介 した。金焔といえば、ある程度の年配者なら、それが誰であるかと、彼の二度にわた る結婚についてもある程度は知っているはずだ。彼の最初の妻は王人美で、二人目の 妻は秦怡である。この番組は視聴者を過去に導き、多難な年代の映画スターたち の生活をもう一度振り返って見せた。 ‘中国放送テレビジョン新聞’の記者がこの 番組の編集・演出者であるハン・ビンと金焔の妻・秦怡を取材した。

韓国から来た中国映画皇帝

‘人物’の編集・演出者であるハン・ビンは、中国映画100年を記念して金焔 を含む6名の人物につきドキュメンタリーを制作、‘流れる歳月の影’という番組 で放送した。この番組に登場した6人はすべて中国映画史でとても重要な人物であると紹介した。 そして金焔の芸能人生の全盛期であった30年代は、20世紀の中国文芸が最も 盛んだった一時期でもあった。金焔と共に映画を撮った周や胡蝶 などの大物スターもいたが、当時の金焔の影響力は彼らを超えたとハン・ビンは紹介した。

ハン・ビンはまた、多くの人は金焔という中国映画の皇帝が韓国人であることを よく知らないとしつつ、金焔について紹介した。金焔の本名は金徳麟、1910年韓国ソウルで出生した。 彼の父親・金弼淳は、韓国で最初の西洋医学病院の院長だった。日本が朝鮮を占領した後、彼は 朝鮮独立党の指導的人物の一人になり、抗日活動を展開した。 1911年末、金弼淳は 日本人の地名手配を避けて家族とともに中国黒龍江省のチチハルに避難した。 1918年、金弼淳は日本の特務警察が仕掛けた毒薬をうっかり飲み、死亡した。 父親は金徳麟に最も大きな影響を与えた人である。父親が殺され、金徳麟の記憶から 永遠に消えない陰として残った。父親が死亡した後、彼は抗日を決心した。貧困に苦しむ 自分を鼓舞するという意味で、名前を金焔と改名した。父親が死亡した後、 彼は叔母の家で育った。10何歳かで、金焔は既に背がスラリとした爽やかで俊敏な男に育つ。 彼は上海に出て人生の道を切り開くことを決心した。

上海で映画を何部も見た彼は、“私も映画俳優になれないだろうか?私が俳優になれば、 今なら誰にも負けないだろう。”という自信感が芽生えた。彼はこんな自信感と恵まれた スタイルに加え、運まで良く、ある映画会社の実習生になった。 1年後、彼は早くも主演になった。 20歳になる日、阮玲玉と共に‘野草と野花’という映画を制作した。こ の映画で彼は一気にスターに踊り出た。誠実で郎らかな彼の演技は、一人の若者の新し い時代を開拓した。 1932年‘映画皇帝’を評議する活動で、彼は他の俳優たちを制して 一躍、映画皇帝に当選した。金焔の言行は、その時代の青年達の理想になり、彼の 服装や髪形さえ青年達が真似する‘見本’になった。ハン・ビンは、引き続き次のような内容を 紹介した。

金焔の親戚らは、後に大部分が韓国に帰国した。彼の姪がアメリカ、中国などで幾 多の人を取材した後、去年、金焔に関するハングルの伝記を書いた。私たちは番組 製作過程にて、韓国にいる金焔の親戚のうち最も自慢に感じる人が二人いて、一人は金焔の 父親、もう一人は中国の映画皇帝・金焔であるという事実が分かるようになった。秦怡 は記者に、映画皇帝というのはあまり重要なことではなく、重要なことは芸術史上 で優れた作品を演じたという、この事実であると語った。

王人美、死ぬまで金焔を忘れられず



1934年は金焔の人生と事業がすべて全盛期を迎えた年だった。 この年、彼が主演を引き受けた抗日映画‘大路’が大成功した。 この年に彼は20歳の映画スター・王人美と結婚した。

金焔と王人美の結婚は、一時゛、上海で美談として伝わった。金焔は当時、上海 の名人として位置づけられ、王人美もまた芸能界からスターに浮上し、周、胡蝶らと共に 上海の4大美人の一人だった。二人は恋愛の後、直ちに挙式した。 抗日戦争が勃発するや、彼らの生活を振り回した。金焔は日本人のために出演する ことを断固拒否した。彼は王人美と共に上海を去り、放浪生活をしなければならなかった。 芸能事業に再び戻ることは不可能だった。その結果、生計を立てることもままならなくなった。 王人美は、お金を儲けて家庭を維持することを希望したが、金焔は外国人のための仕事 は絶対しないと固執した。王人美の英語の水準はとても高かった。彼女はアメリカで 打字員の仕事を求めた。すると金焔は、この仕事で王人美が自分を台無しにするに 違いないと叱りつけた。 王人美は性格が活達で陽気だったが、金焔は内気で頑固な性格だった。 後には王人美と金焔の結婚生活に亀裂がますます大きくなり、ついてに 婚姻関係を維持することができない状態に至った。 1945年夏、二人は離婚した。 その後、長い歳月が流れた後、彼らの親友たちはこの二人のスターの結婚を次のように 評価した。 金焔は国を愛し、王人美は家を愛した。それが彼らが別れた主要因であると。 またあるは、彼らの婚姻生活は上海の派手な芸能界で誕生したのだから、 彼らの婚姻に燦爛たる金色の枠を飾った。しかし彼らが金色枠を維持できる環境を去れば、 彼らの婚姻も終わりを告げたのだと分析した。

その後、金焔と秦怡がお互いに恋愛するようになった。 1947年、36歳の金焔と24歳の 秦怡が香港で婚礼式をあげた。婚姻に纏わるよもやま話は、生活の中での正常な一部分 だ。しかし金焔が秦怡と婚礼を挙げたのは、王人美にしてみれば致命的な打撃に違いなかった。 王人美は、もともと戦争が終われば、金焔とまた家庭を持つことを期待していた。 後に王人美は秦怡の家へ行き、金焔を訪ねた。しかし金焔は既に再婚した人であり、秦怡という美女が 彼の面倒を見ている。金焔が彼女を忘れることが出来ただろうか?

新中国の建国後、王人美、秦怡は金焔と共に上海映画撮影所に配属された。同じ職場で仕事を する彼らはお互いによく会う機会があった。これは王人美にとっては到底受け入れることができない 精神的打撃だった。王人美は、精神が憂鬱になり、当時既に精神病にかかっていた 周に付き添った王人美もまた精神病にかかるようになった。病気が治った後、文化部 では王人美を北京映画撮影所にで転勤させた。王人美は北京映画撮影所で 寂しく一人きりで10年間暮しているたが、その際、著名な漫画家・葉浅予と再婚した。 しかしその時、葉浅予は既に三度も離婚を経験していた。 葉浅予の三番目の妻は、著名な舞踊家・戴愛蓮だった。王人美は再婚したが 金焔を忘れることができなかった。彼女は晩年、自分が口述して他人が整理する形で 回顧録を出版した。彼女は回顧録の名を<私のデビューと不幸>とつけた。王人美はこの本で 少なからぬページを割いて金焔に関することを口述した。 中央テレビジョンの編集・演出者であるハン・ビンは、記者に次の事実を紹介した。 ‘過ぎ去りし歳月の影’の中に王人美に関するドキュメンタリーがあるガ、 放送局仲間たちが王人美の多くの友人を取材した。彼らはすべて、王人美は死ぬまで金焔 を忘れることができなかったと言ったという。王人美の親友、リョ・ウンは、人美は離婚した後、 金焔に対する悪口を一度も言ったことがない。年老いても金焔を忘れることができなかったが、 多分、金焔との恋愛は彼女の初恋と不可分のものだったのだろうと説明した。 80年代、 王人美は路傍に倒れ、脳出血で植物人間になってしまった。 1987年、彼女は孤独に生涯 を終えた。彼女には子孫もない。

頑迷ではなかった秦怡との結婚生活

秦怡はひととき金焔との結婚にとても満足した。秦怡は記者に次のように昔話をしてくれた。 自分がまだ娘時代、金焔が主演を引き受けた映画をたくさん見た。 あの時、彼は自分のアイドルだったと告白した。自分が金焔を正式に知りあうのは 40年代、重慶にいた時のことだったと打ち明けた。あの時、金焔は 王人美と共に重慶に到着したが、彼が誕生日を迎えた時、多くの人が彼らを祝って くれた。陳天国が自分と一緒に金焔を祝いに行こうと言った。陳天国は 私のもともとの主人だ。彼も金焔をとても崇拝していた。私も金焔を崇拝していたから、 彼と一緒に金焔の誕生パーティーに参加した。王人美は熱情的で陽気な 性格、金焔は俊敏で沈着だった。私は彼らの結婚は相性が良いと 思った。まさか彼らが離婚することになろうとは、本当に分からなかった。

2度目に金焔に会ったのは、1946年のことだった。あの時、私は既に陳天国と離婚して娘を連れて 上海に居住していた。一日目はある友達が金焔と一緒に私の家を訪問した。金焔も あの時は既に王人美と離婚した後だった。あの時から金焔は暇さえあれば私の家を尋ねて来た。 王人美と別れた金焔はきっと寂しいんだろうと思った。 あの時、私は‘無名氏’という映画に出演している時だった。金焔は毎日撮影場に来て、 夜になれば自分の車で私を家に送ってくれた。ある日、金焔が私に、 今夜はとても静かだから、初めから自分の家へ行って休んではどうかと聞く。.私はベッドで寝て、 自分は長いすで寝れば良いと言った。

秦怡と金焔の恋愛に後悔がなかったわけではない。秦怡は王人美が金焔の心底 に残した印象をあまり気に止めなかった。ただ、秦怡は金焔が時としてとても硬い のが気にかかった。一度は映画見物を約束した。ところが秦怡が 約束した時間よりちょっと遅れて映画館に到着した。秦怡がその理由を釈明 しようと思ったが、金焔は聞こうともしなかった。 “釈明などいらない。私は 時間を守らない人が一番嫌いだ!”秦怡は真正な愛は初恋だというなら、自分と金焔 の愛がまさに初恋だといった。彼女は前の夫に全く愛情が湧かなかったからだ。秦怡 は金焔と白髪になるまで一緒に住みたいと思った。ところが結婚問題を切り出すと、 金焔が先延ばししようとする。金焔は“少し待ってから決めよう。アメリカのハリウッドの知らせ を待って見よう。”と言った。あの時、金焔は アメリカ映画界で自分の演技を見せたいという意向があった。金焔が秦怡に言った。 “もしアメリカへ行くことができなければ、その時に結婚するというのはどう?”と。 秦怡はこの言葉を受け入れることができなかった。秦怡は自分は 金焔の心中であまり重要な席を占めることができないなと感じた。しかし金焔は この言葉が秦怡の心をいかに傷つけたかが分からなかった。 1947年、秦怡が香港に行って出演するようになった。その時、金焔も秦怡について行った。

秦怡は、その頃の話を次のように語った。 .私たちと近く過ごす呉祖光が、私たちにどうしてまだ結婚しないかと聞いた。当時、私た ちは本当に結婚問題を正式に決めていない時だった。金焔はその時もアメリ カに渡って芸能界に身を投じたい思いを捨てていなかった。そして私は金焔と の結婚を思って見ることはしたが、もしお互いにそぐわなくて、また離婚す ることになるのなら、初めから結婚をしない方が良いと思った。そして気持ちさえ通じれば、 結婚しないで同居しても差支えないという考えを持つようになった。気持ちが通じなければ結婚しても 仕方がないからだ。あの時の私たちはまだ結婚問題を考えていなかった。そしてとても忙しく て結婚する間もないと言った。呉祖光が、私たちに婚礼式をあげてやろうと言った。 そんなわけで、香港で呉祖光が名乗り出て私たちの婚礼式を挙げてくれたのだ。

結婚式の日、金焔は酒に酔ってヨレヨレになった。ベッドから転がり落ちた後、トイレに 這って行き、またベッドのので這って来た。私たちのハネムーンは三日しかないのに、 金焔は二日も酔っていた。三日目に金焔は我に返ったが、私は その日のうちに撮影場に出なければならない状態だった。

結婚してからいくばくもないある日、外食するようになった。その時、金焔と ともに王人美とも近しく過ごしたある友達に会うようになった。酒の籍で自然に王人美 の話が出たが、金焔は怒ってその席で酒のテーブルをひっくり返して、一人で外で走り出た。 後で金焔は秦怡に本当に申し訳ないと謝った。 秦怡は自分の本に次のように書いている。彼はとても優しく私を見て、(私は 以前にも以後にも、このように優しく私を見つめる金焔の目を見ることはなかった.) 自分が本当に悪かった、許してくれと言って謝った。彼はこれから絶対私の心を 傷つけるような振る舞いはしないと誓った。あの時、彼の詫びがあったから、私たち は36年を一緒に暮すことができたのだと秦怡は告白した。

戦後、秦怡と金焔は一緒に‘忘れてしまった愛’という映画に出演した。 この映画は彼らが唯一、一緒に出演した作品だ。彼らにはキム・チョプという子がある。 キム・チョプは後に重い精神疾患にかかった。

若くして死んだスター

金焔に対する秦怡の評価はとても高かった。彼女は記者に“私はとても忙し い人だ。中央テレビジョン放送局で金焔について話すということでなければ、私は 取材を受けなかったはずだ。金焔は鋭気が抜群な人だ。また生活に趣 を追い求める人だ。彼は自動車を運転出来る上、飛行機を運転でき、鉄砲も撃てるし、服も格好よく 作れる。そしておかずも、とても美味しく作る。彼の漬けたキムチは、今韓国から輸入したキムチより 美味しい。彼は私を幸せにする術を知っていて、日曜大工もとても上手だ。 この全てのことは、いずれも彼が自然に身に付けたことだ。 彼は幼い時から祖国を去って、人より仕事をより上手にやり遂げ、名前を売ろうとする 初志を一度も捨てたことがない。ところが残念なことに1959年、金焔は重いな胃腸病 にかかって起きることができなくなった。 1962年、手術の後遺症が残った。その後20年余りの間、 往年の映画皇帝・金焔はベッドと車椅子から離れることができなないまま、1983年に死亡した。”と言った。

金焔は病気にかかったが、秦怡は出演に忙しく回る一方、息子の面倒を見るだけで手一杯になり、 夫・金焔に対する面倒まで見ることができなかった。事実 上、多くのことがいつの間にか変わってしまったのだ。建国の後、秦怡は多くの映 画に出演した。しかし‘映画皇帝’金焔の芸能事業は夕日のように、ますます光 を失い始めた。これと同時に二人の間に衝突も発生した。 しかし秦怡は体面をしっかりと繕う人だ。彼女はすべての困難を心中に隠し、 結婚生活を維持した。今秦怡は、相変らず“今顧みれば本当に金焔に申し訳なかった。 彼の面倒を見てあげられなかったことが、いつまでも心にかかる。 1958年、病気になって死亡するまで、彼の身体は基本的に回復することができな かった。しかし彼は始終病魔と闘い、他人に負担をかけないようにしていた。 私は映画事業に忙しくかけ回ったが、彼は一人きり。たよりなく淋しく病と闘った。横で面倒を見てくれ る人がいなかったが、彼は私に何の要求もしなかった。彼は本当に頑張り屋だ。 手術前、少し歩けた時、彼はつとめて私のいかなる品物でも故障したら直した。 新しく来た俳優たちは、彼をどこかから呼んで来た作業員かと思い、彼 が劇団の団長だとは分からなかった。”と言っている。

金焔が秦怡に残した印象の中で一番大きな欠点は、お酒をあまりにも多く飲んだということだ。 それで体を壊した。記者が秦怡に、結婚前にそんな欠点を見付ける ことができなかったのかと聞いた。秦怡は、あの頃も彼はよく酒に酔ったと言った。しか し彼は陳天国のように酒を飲んだのではない。陳天国は酒乱だった。彼は酒に 酔うたびに人を殴る。.しかし金焔は酒をたくさん飲んでも正常な事業に影響を与えなかった。 そして人を殴って解決する方法は絶対ないと言った。秦怡は 金焔が煙草をあまりにもよく吸うので、一時は私は息子が病気にかかったのは彼が煙草を あまりにも吸い過ぎるからだとよく言った。あの時、友達が我 家に集まるたびに、部屋全体が白く霞むほどに煙草を吸っていた。

秦怡は記者に“韓国のあるテレビ放送局が私を尋ねて来た。私と金焔の話を映画に撮るという 意向を見せてくれた。その時、私はこれに同意しなかった。 映画に撮った後の話がどうなるか、誰が判るのかと言った。 秦怡は自分と金焔との結婚は、金焔にしてみれば一つの悲劇だと言った。 秦怡は多くの家族の声援と現実のために忙しく走り回らなければならなかった。 しかしこれは金焔が望むこととはあまりも距離が遠く、差が大きかったのだ。 秦怡は記者に、私と金焔は二人ともあまりにも多くの社会変革を経験しなければならなかったし、 複雑な対人関係に耐えなければならなかった。こん な現実で、私たち二人の愛情を描いて欲しくないと言った。 そして私は独立的な人間で、二人の主人を含め、いつもその誰にも期待したことが女だと言った。 最初の夫は酒乱だった。酒に酔うだけで秦怡を殴り、罵り、生活が出来ないようになった。 秦怡に与えたものは恐怖以外には何もなかった。映画皇帝・金焔もまた秦怡 が望む愛を与えることができなかった。秦怡は前に“私は恋愛映画の演技が全く出来なかった。 一生、この方面の真の感受がなかった人間だからだ。”と言った。

感情生活の不幸は、秦怡を辛抱強い人間にした。彼女は自分が苦労することを人生の修練 と受け止めたのだ。 1966年、秦怡は膓癌にかかった。しかし彼女は今日 までいつも忙しく動き回っている。秦怡は一方で事業に没頭しながら、他の一方では 家庭の面倒を見なければならなかった。たとえ82歳になっても、秦怡は息子を看病す る事を捨てることができなかった。記者が彼女に電話をかけたのは昼時だった。彼女は “朝に息子を起床させる。そして彼に服を着せて朝御飯を食べさせ て注射を打って薬を飲ませたら、いつのまにかお昼時になった。程なく絵描きの先生が来て、 やっと一息つくようになった。午後に私はまた仕事があって外出しなければな らない。明日明後日は、出張に出なければならない。時には初めの夫から生んだ 娘が来て、私の代わりに弟を看病してくれるが、彼女も自分の家庭があって忙し い人だからたびたび来ることはできない。 70歳になった保母はまともに仕事をするこ とができない。新たに保母を捜そうと思っても簡単ではない。年の若い保母たちは患者を 見るだけで怖がる。”と言った。

金焔が死亡した後、どうして再婚しなかったのかという記者の問いに、秦怡は若かった時にどうしても 出来なかったこと(「愛」を指す)を、老けてから得ることができるか? 相変らず一人きりで住むのが好きなのだと答えた。

(黒龍江新聞 2005年3月10日)
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