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[教育] 高句麗と三国史記、そして東北工程を考える


▲高句麗(C)2005セウム

韓国の古代史は疑惑の多い歴史だ。その中心に高句麗がある。明らかになったことだ け見ても、韓民族最強国の歴史であるにもかかわらず、中国の歴史強奪が始まった 今になって初めて新しいスポットライトを受けている。

天下に号令した広開土王の活躍が書かれた碑が発見されたのも、僅か130年前のこと で、韓半島中原を支配した高句麗の境界を知らせる中原高句麗碑が発見されたのも、 わずか25年余り前のことだ。それ以後、今私たちが知っている高句麗の領土が描かれ た。どうしてそんなことになったのだろうか? 何よりも、残っている古代史につい ての書籍資料がほとんどないからだ。

金富軾が書いた'三国史記'が唯一のものであるらしいが、そのため実証史学者たちは '三国史記'に信仰のようにしがみ付いている。一個人が記録した書物一つに古代史全 体の運命をかけているのが、いたわしい私たち歴史学界の現実だ。その書物一つ一つ の文句によって、千年が過ぎた今も子孫を教育させている私たち学者の悩み は大変なものである。

そもそも'三国史記'とはどんな本なのか?唐を引き入れて高句麗を滅亡させ(もちろ ん高句麗は内紛により亡びた)、南北朝時代(決して統一新羅時代ではない)を開いた 新羅が歴史を自己中心的に記述したパンフレットに過ぎない。

三国の中で最も弱小だった新羅を中心に古代史を書くと、当時南朝だった新羅より強 かった北朝の大震:渤海,渤海という呼称は713年唐の玄宗から渤海軍王と名づけられ た時から始まる)の歴史を完全に抹殺させてしまったのはもちろん、この地に数百年 にわたり堂々と君臨した伽揶の歴史は幽霊のようにしてしまった。 そんな金富軾だったから、高句麗に侵入した隋軍35万人を全滅させて追い出した高句 麗太王がむしろ"恐怖心から'遼東糞土(遼東の糞みたいな国という意味)の臣下何某' だと書いた謝罪文を差し出した"として、高句麗・淵蓋蘇文の氏姓である淵が、唐を 建国した李淵の淵の字と同じだとして'泉蓋蘇文'と記録するような言葉遊びをして いた。

またそんな彼ゆえ、唐と新羅にとっては目に刺さったトゲのような存在だった高句麗 の英雄・淵蓋蘇文を極悪非道の国を台無しにした奸臣として描き出したことはむしろ 当たり前の事だったろう。

このような'三国史記'記述の問題点が先賢達によって数多く指摘されながらも、結局 は おぞましいまでの'実証'主義に阻まれ、誰一人として直すことができなかったわけだ が、 何よりも問題なのは、中国の高句麗史強奪が現実になった今ですら、私たちは高句麗 に ついて何が問題なのか認知さえ明確に出来ないままセンチメンタルな対応ばかりして いると いうことにある。

今中国で行われている'東北工程'というプロジェクトを垣間見ると、鳥肌がたつほどだ。 中国は自国の利益のために、学者の良心まで潰して総力を挙げて高句麗史強奪に出た 格好だ。 東北工程に反対して集まった'高句麗研究財団'で発行している高句麗史の資料集を見 ると、こんな題目がある。

"唐の太宗は高句麗征伐について後悔しなかった。むしろ30万の大軍で高句麗を一挙 に滅ぼそうと思った。太宗が嘆いた'もし魏徴がいたら'は、「今度の征伐がなかったの に」というのではなくて「今度の征伐の損失がなかったのに」という話だ。太宗が歎息した のは、もし 魏徴がいたら今度の征伐で2千人余りも死ななかったはずだということで、軍馬も 7、8割も失われなかったはずだし、安市城の戦いも成功したはずだという意味である。"

-「隋唐時代の高句麗史」の部分, <中国人が書いた高句麗史>

高句麗に精通した学者ならこれが何の話かすぐ分かるはずだが、一般人たちのために 背景説明をすれば、次のとおりである。

645年3月、唐の太宗・李世民は多くの朝廷重臣達の反対を押し切って句麗河(今の遼 河。 当時は高句麗の川という意味で句麗河と呼ばれた)を渡って、高句 麗を侵犯する。その時彼が率いて来た兵の数に対しても意見がまちまちだ。 '三 国史記'は10万、 'KBS歴史スペシャル'では30万位と見る(先立って隋の煬堅は35万、 その 息子煬帝は113万を率いて高句麗を侵犯したが、ことごとく失敗した)。

当時最高の戦略家だった兵部尚書の李靖をはじめ、経験豊富なベテラン策略家は、誰 一人として李世民に 従わなかった。それほど高句麗との戦いが無謀に見えたのだ。 仕方なく李世民は、地に落ちた兵たちの士気のを奮い立たせる目的で、自分達が高句 麗に負けるはずが無い5つの理由を檄文として掲げる。

その第一が、多数で少数を攻めるから、であった。

ここで彼がいう「多数」とは、どの位のことか?前述のとおり、'三国史記'では10万、KBS歴史ス ペシャルでは30万位と見ているが、当時の遼東(満州)を防衛した別動隊の遼東軍 の数だけも15万だったから、まず'三国史記'の10万という記録は話にならない。

以後、安市城を落すために、李世民は50万を動員して土塁を築くという記録があ るが、急に増えた数は先の戦いで捕らえた高句麗兵だったと いう(そうかも知れない!)。とにかく李世民は、安市城で大敗して、敗走する。 (ここでも金富軾は李世民の自尊心のため、彼が敗走しながらも安市城の城主・楊萬春 のすぐれた防備力を誉め、絹百筆を送ったなどとシャーシャーと書いている)。

戦場で敗れて帰って来た唐・太宗は、'魏徴さえ生きていれば、こんなことにはならなかったのではないか ?'と嘆いた。

この記録は誰も否定しなかった定説だった。ところがそれすら彼らは、思い通りに直して書いて いるのだ。もう少しだけ時間が経てば、彼らの言葉が記録に残った歴史 的事実に化けるかも知れない。 やや大げさに高句麗史についての話をするようになったのは、この状況に必ず必要な一冊 の本を紹介しようと思うからだった。その題目は<高句麗>で、原稿6300枚の分量が使われ た大河小説である。

中原高句麗碑を最初に発掘確認した史学系の元老チョン・ヨンホ博士も感嘆していたが、 私は大河小説、歴史小説をこんなにも大衆的に書けるという事実 に驚歎せざるを得なかった。

高句麗と隋唐の戦争は、世界史にその例をみることができない大変な戦争だった。 記録に残った侵略軍の隋の兵力だけで113万だったから、そこに対立して 戦った高句麗軍を加えれば、200万もの大軍がぶつかった戦争だった。

作家は小説の中に、その戦いの場面だけ原稿紙2000枚を超える分量に描いている。そ の執拗さは著者が高句麗の乙支文徳や楊萬春にり、隋の煬堅、宇文述にならなくては到底想像さえできない事だ。 その大変な戦闘場面を描きながらも、武人の身振り一つ一つにも生命を吹き入れた腕前は優に歴史小説の 水準を引き上げたといっても過言ではない。

金富軾が「遼東の糞みたいな国」と書いた高句麗の奸臣により討たれてしまった淵蓋蘇文を 墓の中から引っ張り出して咆哮させたのは、小説的形式でなければ不可能だっ たが、そこには生々しく呼吸する一人の偉大な英雄の実体が、掛け値なしに感じられる。ひいて は唐に取り入って、隣りの同血国家を滅亡させようとやって来た新羅の金庚信の5万の軍に 5千の決死隊で迎え撃った百済の階伯の精神もまた、この小説がいかに文 学的に成就しているのかを如実に感じさせてくれる。

私は書評でこんなことを書いたことがある。

"中国の三国志を百年以上も売っているし、それをこの国の最高の作家という人々 が自慢して騒いで暮す歳月だ。この本が出れば恥に思う人々も多いだろう。こ れほどの小説は100年前にもなかったし100年後にも出ないだろう。"

私はこの言葉が過言ではなかったと今も信じている。

近頃、私の関心はこの大河小説<高句麗>の存在をどれだけ多くの人々に広く知らせること ができるのかにある。 <高句麗>との出会いは、私にとっては一人の出版人として持つよ うになる本一冊に対する意味以上の何かがある。少し強い言い方をすれば、私の同胞との出 会いであったし、自負心との出会いだった。

<高句麗>を読む人がいたら、まずは、 '本当に高句麗がこんなにすご い国だったの?私が知っている歴史はこんなものではないのに、まさか我が民族がこんな に偉大だったとは……'などの言葉で自らを過小評価する判断ぐらいは留保しておいてもらいたい。

そのまま小説を楽しんで私たちを振り返ろう。たぶん既に固着化された歴史教 育に鍛錬された人々には、たやすくは受け入れにくい部分もあるはずだ。しかしそういう予備知 識もまた、前述した三国史記的記録から脱することができなかったものであるかもしれな い、いや、そういうことだろう。 この本の著者は十年ものの時間をそっくりそのまま'高句麗'に投資した人だ。.多くのことを 完璧に理解して咀嚼出来る人だけが文を分かりやすく書くことができる。

大河小説<高句麗>は中学生水準であっても興味津津でページをめくるようになるほど易 しくかかれている。それだけ著者は高句麗について、私たちと隋唐との関係について、私た ちの古代史について、幅広い知識を自分のものにして、殆ど戦略的(?)に描いているのだ。

今やこの小説が我が民族最強の歴史を具現した高句麗を理解し、今の時点に中国がどう して高句麗に執着しているのか、私たちはどうしてそこから目を離してはいけないのかが分 かるようになる一つの礎石になって欲しいと切実に思う。

(オーマイニュース イ・デシク記者 2005年3月3日)
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