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28.“赤い5月闘争”

激しい暴動、燎原の炎の如く燃える。肝を潰した日帝、血の弾圧を敢行


▲暴動により破壊された頭道溝朝鮮人民会(資料写真)

5月闘争行動委員会

1929年下半期から1930年上半期の間、全国の革命情勢は非常に好転した。紅色政権と紅軍の力は大きく伸び、国 民党統治区域での中国共産党の組職事業と大衆事業も相当に回復した。このような情勢に直面した中国共産党は、全 面的な武装暴動を起こし、政権を奪取することを指導方針にした。

1930年4月5日、中共満州省委と共青団満州省委では、“<5.1>に対する事業決議”を採択し、各地の党組織で“5.1”節 をきっかけに暴動を積極的に組織することを要求した。 4月24日、中共満州省委では“<5.1>闘争行動委員会”を組織し、 “日本帝国主義を打倒しよう!”、“国民党反動軍閥政府を打倒しよう!”、“高利貸搾取に反対しよう!”、“地主の土 地を奪って各民族貧困農民たちに分配しよう!”、“土地革命を実施してソビエト政権を立てよう!”などの闘争のスロー ガンを提起した。

暴動指揮部兼、連絡所としてアジトを建立せよという党組織の指示に従い、呉ウォンセ(朱徳海の叔父)は、交通が便利で 敵方の耳目が及びにくい地村に自分の親戚の名前で新しい家一軒を購入し、頭道溝方面の 暴動指揮・崔ヒョンイクと車 ジョンスク(親戚)をニセ夫婦として暮しを調え、人々の耳目を誤魔化すようにした。家は地村 から少し離れた独立家屋 だったので、地下活動に使う上で便利だった。かくしてここは当時、延辺特別支部と“赤い5月闘争”指揮部構成員の秘密 拠点になった。

1930年4月24日、地村の呉ウォンセの家で“<5.1>に対する事業決意”を執行するために延辺に 派遣されて来た中共満州省 委特派員朴ユンソと馬駿、中共延辺特別支部書記・王耿(一名:李ワルリョン)、委員・伊福海、朝鮮共産党(エムエル 派)東満道責任者・金グン、元朝鮮共産党党員金チョル、エムエル派系列の高麗青年会東満道責任幹部らが参加した連席会 議が開かれた。会議では“赤い5月闘争”行動計画を具体的に策定した。まず今度の“<5.1闘争>を指導するために延辺党部 と本特派員は4月24日、<5.1行動委員会>を組織したが、責任が金漢峰(前任エムエル系延辺責任)、委員に朴某氏、万某氏( 前任エムエル系Y責任)、金平鉄(爆破総指揮)以外、2人の中国同志(名前未詳)らで構成された。”(金哲洙“延辺抗日史 跡地研究”)会議では“日本帝国主義を打倒しよう!”、“土地革命を実施してソビエト政府を立てよう!”などのスローガン を提出し、闘争の方向をはっきりさせ、闘争戦略を制定して各々民たちは中共延辺特別支部の指導下に仕事を離れ、ストライ キ、同盟休学、農民暴動などの形式で“赤い5月闘争”に参加することを決めた。

“5.1”闘争

1930年5月、中共延辺特別支部と“5.1闘争行動委員会”の指導下に延辺各地の農民、労動者、学生たちは反日の旗 印を高く掲げ、“日本帝国主義を打倒しよう!”というスローガンを高く呼びながらストライキ、同盟休学、デモ行 進などを威勢良く断行した。

“5.1”闘争は六道溝(龍井)の労動者と学生たちのストライキ、同盟休学を先頭に起きた。当時、六道溝には200人余 りの労動者が主に参加した。これらの労動者たちは鉄道労動者30名余りの外に、靴下製造、印刷、木商、木工、鉄工な どの労動者たちだったが、大部分が朝鮮族だった。日本の人々が経営する中央学校(元普通学校)を除いた20余りの学校で も皆同盟休学をしてデモ行進を断行した。

当時、中共満州省委特派員の朴允瑞は省党委に送る報告書にこのように書いている。

さまざまな原因により、4月27日から事業を始めたが、その成果は次のとおりだ。 “5.1”ビラを合計1万7000部撒き、延 辺の韓人各派に“5.1”闘争に参加することを訴えた宣言を、合計3000部撒いた。六道溝で記念ストライキと同盟休学を実 施して(200人余りの労動者たちが参加)、平崗、石門子等で記念大会を開き、反帝大同盟を組織してソビエト代表会代表の 資金を募金した。そして白色テロに備えて農民自衛隊を組織した。 5月5日、薬水洞で農民たちを組織してデモしたが、参 加した農民が合計600人余りだった。 5月21日、和龍県で県立第一学校を中心にデモ隊を組織したが、国民党の党化教育に 反対するスローガンと植民地教育に反対して私立学校封鎖に反対するスローガンを高く叫び、各自は手に小さな赤い旗を持 って延辺当部で出したビラをバラ撒いた。 5月23日、和龍県私立明東小学校を中心とする学校と農民群衆たちは、連合して 県立第一学校で断行した同じ性格の群衆隊デモを行い(参加群衆約600人)、先に明東学校事件で逮捕された3人を救出して来た。

“赤い5月闘争”は、龍井と頭道溝一帯だけで進行されたのではなく、開山屯、北蛤莫塘、延吉県八道溝、敦化、額穆等で も起きた。 5月27日、薬水洞と近所の群衆は集会を持ってソビエト政府の創立を宣布した。

“5.30”暴動

“赤い5月闘争”が進行する事により、中共延辺特別支部では、“5.30”惨案をきっかけに大規模的な暴動を起こす計画 をした。すべての行動は計画どおり進展した。そして1930年5月29日夜、三道溝(今の和龍市所在地)から親日地主ロ・ ミョンファ、金ジュファンの家を焼却することで暴動の烽火が上げられた。暴動隊はこの日の夕方、平壌旅館にも火をつ けた。青波湖付近に派遣された暴動隊は、付近の電話線を切ってしまうと電線台を叩き壊した。三道溝地帯の暴動を皮切 りに、頭道溝、龍井を始めとする各地での暴動が燎原の炎の如く燃え始めた。

30日夜に龍井で大暴動に突入したが、その時の状況を“朝鮮日報”はこのように報道している。

‘時は来た。 5月30日夜の十二時!大陸の都市龍井村の夏の夜は深く、群衆は静寂な中に警官の刃と警棒を避けつつ一人 、二人、十人、百人、千人と集まる群衆は、約束したように東山大陸ゴムの看板の下に潜伏した。この時だ。 新興学校の後 方の山にある北山の頂上で、暴動責任者・金浮ヘ、懐中電燈で開戦の暗号を出し、応援隊の合流に応じて直接行動隊は領事館、 停車場、機関車、電気工事、鉄道会社などに順に火を放って、殺傷の市街戦が演出された。火は天を焦がし銃声が響き、叫び声 と悲鳴が騒がしい中、領事館では機関銃を乱射して幾多の群衆が倒れた。31日朝までに電燈公司は5000円ほどの損害を被り、 海蘭河鉄橋は崩壊し、東拓会社には爆弾が投げ込まれた。このように龍井村だけでなく、暴動の計画は全て実現したので、同 日同時に和龍、延吉、頭道溝など間島一帯は修羅場に変わったと言う。’

頭道溝の主な暴動攻撃目標は、頭道溝日本領事分館、朝鮮人居留民会、普通学校、上部局、中国軍兵営、公安局及び親日 地主宅だった。暴動準備のために暴動指揮部では、ソ・ソンキュを辺疆地域に派遣した。ソ・ソンキュは辺疆地域の暴動指揮 の責任を負った金ユンボンを尋ねて、細鱗河臥龍洞にある彼の家で薬水洞、細鱗河、龍水坪、小五道溝等から来た代表たちの 会議を召集し、具体的な暴動方案を研究した。臥龍洞会議では暴動時間と攻撃目標を決めた後、暴動隊を破壊、放火、応援な どの3隊に分け、海蘭江を境界線として、水南・水北の二つに分かれて行動する事に決めた。

5月30日夜、海蘭江以南の70人余りの暴動隊は、洪ヒェスン、呉チャンギル、金ウンスなどの指揮下に、頭道溝の南側、海蘭 江の橋の下で待ち伏せた。海蘭江以北の暴動隊も朴セジン、朴サンファル、李キョンチョンらの指揮下に頭道溝の北山に至 った。薬水洞、長仁崗、細鱗河など一帯の群衆たちに構成された水北暴動隊は、猟銃18丁と石油、綿などの品物を持って暴動 の合図を待った。

夜11時、頭道溝市内の民会事務室が火に包まれるのを信号にして、水南・水北の暴動隊は事前の計画どおりに行動を始めた。 応援隊は猟銃を撃って爆竹に火をつけ、石油槽に入れて機関銃音のように鳴らすようにした。銃声、爆竹音に驚いた日本領事 館の警察と中国上部局の警官たちは身動きできなかった。普通小学校が焼却され、親日地主の自宅も火に燃え、日本領事館 の壁は暴動隊の射撃によって夥しい弾痕がついた。水南暴動隊は撤収しながら四道溝(龍湖村)の日本補助書堂を焼却してしまった。

龍井暴動隊の主な攻撃目標は、大陸ゴム工場、電気会社、東拓会社、海蘭江鉄橋、機関庫、新興学校の後山の頂上などだった。 5月30日夜、大興電気会社を破壊する任務を引き受けた暴動隊は、斧、棒、石油などを持って電気会社へ行って守衛達を倒し、 電気会社のトラックで攻めこんだ。暴動隊員たちは送電用電線帯を斧で切断し、送電室に入って行って新たに仮設した配電板の 抵抗器、電流計などを破壊した。かくして龍井と頭道溝で市内は一夜にして暗黒の世界に変わった。

延辺人民たちの革命闘争に肝を潰した日帝は、血の弾圧を敢行した。日本警察は金グンら67人の革命者を逮捕して、39人を西大 門刑務所に圧送した。暴動責任者である金グンは死刑を言い渡され、ソ・ソンキュは無期刑、黄ジンヨンは10年刑が言い渡 された。これが“第4次間島共産党事件”である。
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