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12.3.13後の反日武装闘争

雨後の竹の子のように決起する反日武装団体、燎原の炎の如く燃える武装闘争


▲1920年9月、青山里戦闘を前に汪清県西大坡に集まった北路軍政署の将校達。 前列に座っているのが金佐鎮将軍。(資料写真)

武装した敵方とは武装して争わなければならないというのが“3.13”運動の経験教訓だった。 民族の解放を勝ち取るためには、“外交独立論”や中国政府の力を借りるというのは意味の 無いことであり、血の教訓により感じた各界の反日団体は、さらに組織的で力強い武装闘争 を展開するため、武装団体の結成と武器購入、軍資金募集及び反日基地建設の方針を制定し、 力強く推進することだけが活路を開くと悟り、直ちに隊伍を武装させることを最優先することとなった。

間島国民会

間島国民会は“3.13”反日運動の後、延辺でその影響力が最大で、勢力範囲が最も広い反日武装集団だ。

“3.13”反日運動が起こった2日後である1919年3月15日から21日まで、延辺の反日義士たちは 延吉県智仁郷(今の延吉市長白郷)に集まって“3.13虐殺事件”の経験教訓を総括した後、“韓族 独立期成総会”(会長:具春先)を設立した。この団体では、各地の反日運動を支持指導して民衆を 組職、動員しながら、反日運動を推進した。これらは悪質な親日分子を逮捕、処断し、運動資金を募集したりした。

1919年3月21日、ロシアに派遣された金躍淵、鄭載冕が帰って来た後、彼らは民族独立は他人に 頼ることができないというのを切実に悟り、反日武装団体を結成することを決めた。そして“韓族独立 期成総会”を“間島国民会”(会長:具春先)に改編した。所在地は蛤莫塘(後には依蘭溝九龍坪に移した)に 置いた。“間島国民会”は中央総会の下に五つの地方総会を置き、所在地とともに堅固な幹部陣容を持っ ていた。村の支会も100余りがあった。

1920年春から“間島国民会”では、警護隊と国民会軍など、軍事組織を持つようになった。警護隊総司令は 李縺A国民会軍司令は安武が引き受けた。彼らは反日武装闘争を準備するため、各支会に教官 を派遣、青壮年たちに軍事訓練を施し、軍隊に編入させた。 1920年8月の総兵力数は450人、 長銃400丁、拳銃160丁、手榴弾多数だった。彼らはまた軍事人材を養成するため、延吉県崇礼 郷二青背の山奥に士官訓練所を立てたりした。 1920年5月、国民会軍は洪範図の独立軍、崔明 禄の都督府、琿春韓民会軍事部、新民団の部隊などと連合して北路軍部を結成した。

“間島国民会”は東北全体で最大規模の反日団体だったが、会員が8000人余りになった。 “間島国民会”は反日団体の統合に力をつくしながら、反日武装闘争で連合を主張した。彼ら のこのような主張は、その後、鳳鳳梧洞、青山里の戦いでの勝利を勝ち取ることができる条件を もたらすことになった。1920年“庚申年大討伐”の後、国民会軍はその他の反日部隊と共に北満 州の密山に集結し、徐一を総裁、洪範図を司令とする大韓独立軍団を組職、ロシアに移動した。

北路軍政署


▲延辺反日部隊の服装(資料写真)

北路軍政署は、大教東道本社の主管・徐一が先日の反日義兵たちを糾合して組織した“重光団”が 発展して設立された反日武装団体だ。1919年5月、徐一は儒教系の人々と共に重光団を“正義団”に改 編し、10月には正義団を反日武装組職である“大韓軍政署”に改編した。その年12月には大韓軍政署を“ 北路軍政署”に改編し、兵士募集と軍事訓練、武器の購入などに力を入れながら、反日武装組職を拡大した。

北路軍政署は、政治行政事務、軍事金募金、軍人募集、地方通信連絡、交際、警備などの事務を担当 する総裁部は、汪清県徳源里にあったが、徐一が総裁を担当して、配下に副総裁、秘書長、秘書、庶務 部長、財務部長、人事局長、経理局長、継事局長、宅地局長、募金局長、徴募局長、更新局長などを 置いていた。軍司令部の所在地は汪清県 西大波十里坪に置いていた。司令官は金佐鎮、参謀長は李 章寧だった。配下に参謀部長、旅団長、連隊長、参謀、練成隊長、軍旗局長、軍範局長、軍計譜官、偵 探隊長、参謀、軍議政、副官などを置いた。

総裁部の傘下には地方警信局と警備隊があったが、35の警信分局、200人余りの警備 隊員がいた。軍司令部の傘下には400人余りの学生を収容した士官訓練所があったが、 金佐鎮が所長を引き受けた。

1920年9月、北路軍政署の総兵力は1600人、同年、和龍県青山里へ進出した兵力は600人 だった。武器装備は長銃1300丁、機関銃7丁、拳銃150丁だった。

大韓独立軍

大韓独立軍は有名な義兵長洪範図が1919年“3.1”運動の後、元々の昔の部下たちを土台 にして設立した純粋な反日武装団体だった。

洪範図は106人の兵を従えて1919年9月、延辺に来た。その後、次々に他の部隊と合わせ400 人の兵力に増えた。洪範図の理想は、朝鮮国内への進入作戦だった。 “延辺抗日史跡地 研究”(金哲洙)によれば、“当時、中国官房の資料にも、一応パリ講和会議 での交渉が失敗すれば、全隊(決死隊)は<白山義兵大将洪範図将軍の引率下に<心意気を 持って決戦>しようとする計画>と記録、日本の1919年10月9日付諜報資料に も<洪範図は決死隊2500人を率いて朝鮮内地に侵入しようと企んでいる>と記録されて いる情況、そして1919年12月13日の朝鮮咸鏡道知事の報告要旨の<最近の情報によれば不逞 鮮人たちの首領・洪範図配下に約2000人の部下がおり、独立運動の準備として部下た ちを日々に訓練させており、...その根拠地を乃頭山に設置し、旧暦11月頃に朝 鮮内地に侵入して日本軍と交戦する計画をしている>などの資料を 見れば、洪範図は確かに日本との闘いを最優先している注目すべき人物であることに間違いはない。”

大韓独立軍は後に国民会と合流し、国民会傘下に帰属、国民会の根拠地を自分の基 地にして戦闘専門に走り回った。洪範図部隊は他の武装団体とは違い “3.1”運動の後に武装闘争の準備を始めたのではなく、既に完成された部隊として日本と の武装闘争を展開して行ったという特徴がある。

洪範図は特に反日武装団体の連合を先導した。国民会との連合を実現し た後、連続して各反日団体の連席会議を開き、統一と連合の問 題を討議した。しばらく統一は実現できなかったが、連合戦線 を結成することについての協議を開いたりした。

1920年、大韓独立軍は軍務都督府と統合、大韓北路督軍府を組織した後、根拠地 を汪清県鳳梧洞(今の図們市)に移した。 1920年6月7日、洪範 図は征日第1軍司令員の身分で鳳梧洞戦闘を指揮し、勝利をおさめた。鳳梧洞戦 闘の後、各武装団体では連合戦線の必要性を深く感じ、統合に賛成する署名運 動を進め、東道督軍府と統合(北路軍政署を除外)した。洪範図が司令官を引き受け、 根拠地は延吉県依蘭溝の山奥に残した.司令部傘下に4つの大隊を置いた。 1920年8月中旬、洪範図部隊は日帝侵略軍を不断に攻撃するための根拠地を発ち、 二道溝一帯に移動、反日基地を建てて遊撃戦を展開した。

その他の反日武装団体

李明淳を会長とする琿春韓民会はロシアで設立された“大韓国民 議会”の支部として1919年4月14日頃に設立された。琿春韓民会軍事 部長は黄炳吉であった。1919年7月、黄炳吉は決死隊 を募集して“急進団”を設立した後、土地40筆を購入して丸太小 屋7軒を建て、隊伍を4つの中隊に編成した後、軍事訓練をさせた。後に“義士団”、 “砲手団”と合流し、“琿春韓民会軍事部”として正式に編成された。

1920年、新しく軍事部を編成し、崔慶天が軍務部長を引き受けた。新たに構成された 軍事部は、軍内に厳格な軍事規律を設け、幹部選挙などは民主的に進められた。軍事部で は朝鮮進入戦闘を展開しながら、日本侵略軍を攻撃した。

方雨龍を団長とする義民団は、延吉県崇礼郷茶条溝(現 在の安図県)天主教教会堂でカトリック信者たちを主として設立した反日団体 だ。本部は茶条溝天主教教会堂に置いたが、後に明月溝に移した。義民団 の武装力は200人余り、1920年5月、国民会軍などと連合して北路督軍府に 編入された。

崔明禄を総裁とする都督府は、“3.13”運動の後、鳳梧洞で自衛隊 形式の反日武装組職を建立、それを基礎に結成した団体だ。兵力は200人にしかならないが、 地盤が強く、食糧供給が充分だった。

1920年の3月と5月、都督府は各反日団体の連席会議の決定により、国民会、 琿春韓民会、洪範図軍、及びその他の反日団体と共に北路督軍府を編成、 洪範図を征日第1軍司令として6月に鳳梧洞戦闘を展開した。そ の後、指導権問題で洪範図と矛盾が発生し、7月に洪範図軍は明月溝を経て和龍県に 移動、崔明禄軍は羅子溝を経て東寧に移動した。

崔明禄を府長とする北路督軍府は1920年5月27日、鳳梧洞 で国民会軍、琿春韓民会軍、都督府軍、洪範図軍が連合して結成 した後に、義軍部、義民団と新民団も連合して入って来た。

兵力は600人余り、機関銃2丁、5連発長銃335丁、 38式長銃13 丁、30式長銃28丁、旧式長銃4丁で、合計で長銃400丁があり、これ以外に各 種の拳銃18丁、手榴弾多数があり、食糧は充分だった。

李範允を名誉団長とし、金星極を団長とする光復団は、義兵長の李範允がロシアに 行ってから“3.13”後に帰って来て、反日義兵を糾合して結成した団体だが、反日団体 ながらもまた李朝王権の光復をはかる組職だった。兵力は150人で、本部は汪清県大坎子以北の 谷間にあった。

1920年10月22日、漁郎村に行ってから東寧に撤退、他の部隊と 共に大韓総軍部を設立し、李範允を司令に推戴した。李範允を総裁とする 義軍部は、“3.13”の後、強硬派たちが組織した反日武装団体だ。兵力は200人余り、 10月初に洪範図軍と共に臥龍洞に行き、再び羅子溝を経て、東寧県方面に移動した。

金ジョンシクを議事部長とする羅子溝議事部は、“3.13”の後、羅子溝で組織された。 初めは大将が李チュンボム、崔ジョングクだった。10月頃には改善を経て金リグンが議事部長 として活躍した。兵力は200人余りだった。

その外にもリム・チャンセを総裁とする野団、金中建を団長とする大震団、李ベクソン らが組織した義兄弟団、李チュンジョンが設立した救済団など、反日団体 が雨後の竹の子のように決起した。
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