朝鮮特使閔泳煥とロシア皇帝ニコライ2世

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ロシアの歴史博物館には、帝政ロシア時代の歴史を語る貴重な書物が沢山所蔵されている。 その書物の中、1917年、ソビエト政権が樹立されるまで、ロシアの最後の皇帝であった ニコライ2世の、戴冠式選集(百余年前、ロシア宮中管理部が出した皇室資料集)に載っている各国の 使節団の写真の中に、朝鮮の外交使節団の姿があった。それは史上最初のロシア特使として、ロシアの皇帝ニコライ2世 に会った閔泳煥の姿であった。

閔泳煥
閔泳煥(1861-1905)と言えば、伊藤博文による大韓帝国(1897-1910)に対する日本の保護条約(1905年)に反対し、 自決したことで有名だが、彼が最初のロシア外交使節で、今のロシア大使にあたる人物であったことについては知られていない。 閔泳煥が特使としてロシアに行ったのは1896年と1897年の二回である。1896年5月、閔泳煥がロシアを訪問した ロシア皇帝=ニコライ2世の戴冠式に、祝賀使節として出席するためであった。ロシア歴史資料館の新聞保管所に保管されている 1896年の新聞には、当時の戴冠式の様子を各国の外交使節団の紹介とともに全面に報じながら、 特に朝鮮使節団については、閔泳煥特使一行が持ってきた礼物についても詳しく報道していた。また閔泳煥は 当時の様子を自分の使行日記文「海天秋帆」で、西洋文物に接した時の驚きや感懐などを正直に綴っている。

ロシアに特使を派遣した理由
19世紀末、外国の公使館が集まっていた貞洞(ソウル市中区)は、当時、政治外交の中心であった。 ここはルネサンス風に設計された、朝鮮時代最初の西洋式建物の朝鮮駐在ロシア公使館もあったが、 今ではその痕跡である展望塔だけが残っている。このロシア公使館は、1895年8月当時、朝鮮の国母であった 閔王后(後に明成皇后に追尊)が日本人によって殺害された事件(乙未事変)の後、国王高宗が日本の圧力を避け、 1年間避難(1896.2-1897.2)した場所としても有名である(俄館播遷)。ロシアとは、朝鮮と1884年外交関係を 結んでから当時急速に親密になり、当時、公使館に避難していた高宗は、ロシアの援助を受けて還宮の基盤を作るために、 国際情勢に詳しく駐米公使にも任命されたこともあって、当時の朝鮮の外交の中心に立っていた閔泳煥を ロシア公使として派遣した。

特使外交
1724年に設立された帝政ロシア対外政策文書保管所には、帝政ロシア時代の重要外交文書が保管されている。 この保管所は1896年当時、閔泳煥がニコライ2世に送った国書や、会談を記録した文書も所蔵していた。その資料によると、 閔泳煥はロシアとの会談で朝鮮に対する借款提供、ロシア軍事顧問官の派遣などを議論したという。しかし当時ロシアは、 シベリア横断鉄道の建設中であったため、借款を提供する余裕はなかった。また当時のロシアの外相Romanovは日本の 特使山県有朋と、両国は相互協議なく朝鮮の軍事と財政に介入しないという秘密協約を締結したため、会談内容の中、 一番重要であった軍事支援の交渉も難航した。しかし3ヶ月に至る閔泳煥の根強い交渉により、ロシア皇帝ニコライ2世 は朝鮮の要請を受け入れ、協商は妥結した。100余年前、韓半島を危機から救うため遠いロシアに派遣された閔泳煥は、 様々な難関の中、朝鮮の軍隊を近代的軍隊に要請する13名のロシア教官団とともに、朝鮮に帰国することができたのである。

閔泳煥の遺書
京畿博物館(韓国北部)は19世紀の朝鮮の様子が見られる写真を展示しているが、その中にはロシアから提供された 武器を使って、ロシア教官によって訓練が行われていた大韓帝国(1897.8 高宗は皇帝即位式後、国号を大韓帝国と改号)の 軍人たちの姿もあった。これについて専門家は、国の軍隊組織を他国に委任することは、危険だという見方もあるが、当時の日本の 脅威から民衆を保護し、国家体制を維持するためには仕方ない選択であったろうと言う。ロシア教官団が入る前の軍隊の組織力 と規模は大変劣悪な状態であった。しかし大韓帝国政府の支援の下、ロシア教官たちは新たに兵士を選抜し、 体系的で強度の高い訓練をさせ、1000余名の皇室守備隊(侍衛隊)を養成した。その結果、侍衛隊は大韓帝国軍隊の根幹として 成長し、閔泳煥は後に軍部大臣に任命され、皇室の侍衛隊の総責任者(侍従武官)として大韓帝国軍隊の近代化作業を 総括するようになった。

日本によつて滅亡させられた大韓帝国の歴史は、韓国人としてはあまり振り返りたくない記憶である。 しかしある専門家は歴史を知らない人は、過去の失敗をまた繰り返してしまうと言った。没落していく国の運命のために、熾烈な外交を 行った閔泳煥は2千万同胞に残した公開遺書に"死んでもあの世でみんなを助けたい"と書いている。最後まで国政の責任者として 最善を尽くした閔泳煥の姿は、真正な指導者の姿であったと言える。