加藤清正の13歳の捕虜

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2002年4月、韓国の「余氏」門中の人々10名が日本の熊本市を訪れた。彼らが来日したのは、壬辰倭乱(文禄慶長の役) 当時、13才という幼い歳で日本に連れてこられた彼らの先祖の墓参りのためであった。400年も過ぎた今、祖国に帰れない まま亡くなった一人の朝鮮人捕虜と、その子孫らの邂逅ができたのは、長い間取り残された先祖の手紙があったからであった。

余大男
日本の九州の熊本市にある本妙寺に朝鮮人の痕跡が残っている。それは本妙寺の第3代目の住職であった"日遥上人"の墓 であるが、"日遥上人"は幼いとき、加藤清正によって朝鮮から日本に連れて来られた"余大男"という朝鮮人であった。 彼が日本の捕虜になったのは、彼の故郷である河東(韓国南部)の近くの晋州城(韓国南部晋州)が、日本軍に完全陥落 された直後の1593年7月のことで、"余大男"は13歳であった。外国人でありながら28歳という若さで住職になった彼は、 日本軍に捕まった時も、中国(唐)の詩人"杜牧"の山行詩を詠んで日本軍を驚かせたほど、学問的にも人格的にも優れた実力を持った 人であったという。本妙寺には今も江戸時代に描かれた彼の唯一の肖像画と遺物である3通の手紙が保管されている。 手紙は、1通は彼が日本に来て27年が過ぎた1620年、彼の父から初めて送られたもの。そしてもう1通は、それから 5ヶ月過ぎた後、"余大男"が父親に送った返事の下書きであった。最後の1通は彼が父に返事を送ってから2年が過ぎた 1622年に、再び父親から送られて来たものであつた。手紙には父と息子の切ない思いが長く綴られていた。

捕虜の生活
壬辰倭乱当時、鍋島によって日本に連れられた朝鮮人捕虜"洪浩然"は12才であった。後に佐賀儒学の創始者になった彼の墓地が 、日本九州の佐賀市にある阿弥陀寺にあった。また、同市の名護屋城博物館には"洪浩然"が生前残した遺書が保管されており、 遺書には「忍」ただ一文字が書かれていたことから、当時の捕虜たちの生活の大変さがうかがえる。 日本が数万人の朝鮮人捕虜を連れて行ったことについて専門家は、大軍を連れて朝鮮に侵攻した日本は国内の労働力不足に困っていた ため、朝鮮の輪捕虜を連れて行き、奴隷のように売買しながら使っていたという。なかでも阿弥陀寺に眠っている "洪浩然"はまだその名が残っているだけ幸いだった。当時日本水軍の中心地であった四国の徳島には、当時その地域の家臣 が連れてきたとされる朝鮮人捕虜の墓地に、「朝鮮女」と刻まれたなもない墓碑が残っているなど、当時大半の朝鮮人捕虜らの 痕跡は殆ど残っていないという。しかし唯一、捕虜生活から1年目に脱出できた"鄭希得"が「月峯海山録」を通じて、当時の捕虜たちの 悲惨な生活の様子を赤裸々に綴っている。

刷還使の活動
1607年、朝鮮は壬辰倭乱が終わってから日本の国交再開の要請に応じた「回答兼刷還使」という使節団を日本に送った。 この刷還使のなかで副使"慶暹"(1562-1620)が書いた「海槎録」には、当時の活動の様子が細かく記録されている。まず両国の 官僚が初めて顔を合わせた場所で、朝鮮側はこれからの両国の国交を再開するためにも捕虜を召還させることを要求したという。 これを聞いた当時の将軍徳川秀忠は、日本全国に捕虜召還の命令を下した。しかしそれは上辺だけで、実際の日本政府の態度は 消極的であったため、穂量を探し、連れ戻すことは大変なことであった。結果、刷還使によって祖国に帰れた朝鮮人捕虜は 1400名ほどで、これは九牛一毛のように帰れなかった捕虜の数に比べものにならない数ではあるが、消極的な日本側の態度のなか 1400余名も戻せたということは大きな成果であったといえる。その後、この刷還使は1624年まで、もう2回派遣され、 捕虜の救出に力を注いだ。余大男と父親の手紙のやり取りも、朝鮮に帰国した刷還使から、余大男の様子が父親に伝えられたため、 可能になったということが父親の手紙の内容からわかる。

400年ぶりの帰国
当時の日本は戦争が続いた時期であったため、主君の影響力はとても強かった。命令なき行動はひどい処罰が下されるなど、 すべての行動は主君の許可の下行われていたが、それは捕虜だけでなく日本人にとっても同じであったという。 また一人が集団から逃げると、その集団全体が主君から処罰を受けるという連座制が、当時の日本社会の様子であった。 そのため、余大男も朝鮮に戻るため様々な手を考えるが、そのたびに行動の規制や監視が厳しくなり、道で朝鮮の刷還使 に遭遇しながらも、このような厳格な制度の中、籠鳥の身になり、祖国朝鮮に戻れることは一生なく、79歳で亡くなった。 2002年11月、日本熊本の市民団体と仏教系の人々が韓国の河東を訪ね、余大男の父の墓所の前に余大男の追慕碑 を寄贈した。また追慕碑だけでなく、本妙寺の余大男の碑石の下にあった一握りの砂も移された。400年が過ぎて、 ついに父の側に帰ることができたのである。

手紙のメッセージ
秘密に行われていた余氏父子の400年前の手紙の中には、生涯故郷に帰りたかった余大男という捕虜の人生がうつしだされており、 生前息子の顔を一度だけでも見たかった父親の切実な願いが表れていた。また、壬辰倭乱が終わった後、捕虜召還のために 動いた朝鮮政府の努力も、手紙から感じることができた。7年間の壬辰倭乱で、日本に強制連行された捕虜の数は数万人に至るが、 1607年朝鮮政府の努力も虚しく帰れなかった朝鮮捕虜らは、歴史の中からその名すら消えてしまった。余大男も手紙が 残っていなかったら、今日彼を韓国と日本で語り合うことはなかったであろう。余氏父子の手紙は、今のわれわれに、 400年前一生祖国を偲びながら悲しい人生を送った多くの捕虜の存在と、その家族の悲しみを忘れてはいけないとメッセージ を残している。