任那日本府の真実

BACK][座談会案内

日本の一部では、1400年前の広開土大王(高句麗19代王)碑石の碑文と日本書紀を根拠に、 4世紀から6世紀までの200年間、固体日本が古代韓国の南部を支配していたという任那日本府説を主張している。 広開土大王碑の発見以降、現在まで続いている韓日歴史学界の最大の争点となっている任那日本府説、 その真実はどういうものなのだろうか。

広開土大王(好太王)碑の謎
1300年前、現在中国の吉林省の集安は高句麗の首都であった。集安には現在もその痕跡である高句麗の遺跡や古墳群が多く残っている。 広開土大王碑も集安にあり、これは長寿王(高句麗20代王)が父親の広開土大王の業績を称えるために414年にたてたものであった。 中国で広開土大王碑は好太王碑と呼ばれており、大きさは高さ6メートル39センチで1800字が刻まれている。これは現存する 韓国の歴史記録の中で、一番古いものの一つである。

碑文の解釈と石灰変造説
広開土大王碑で問題になっている部分は、1884年日本の砲兵少尉酒匂景信が持ち帰った拓本の「而倭以辛卯年来渡海破百残□□ 新羅而為臣民」の部分で、日本の学者らは、この内容を広開土大王が即位して一年目であった391年の辛卯年に、倭が海を渡って 百済と新羅を撃破し、臣民にしたと解釈している。これに対して初めて反論を出した最初の韓国側の歴史学者鄭寅普(1892-1950)は 高句麗を守護にして、倭が辛卯年に来ると高句麗が海を渡って来て倭を撃破し、百済と新羅を攻撃し臣民にしたと解釈した。 1972年在日史学者の李進煕白紙は、碑文の解釈に問題があるのではなく、同碑文の拓本とその後の拓本を比較すると、字体が 一定でないことや消えてなかったはずの字が現れていることから、碑文の造作の疑いがあることを指摘した。そして1999年、 碑文の赤外線写真を通じて、多量の石灰を利用し碑文の造作が行われたことを明らかにした。しかしこの変造説について、 一部の中国の学者らは当時清末の時代的状況から考えて、碑文の変造というのは不可能であると反論した。この解釈については 現在も確実な結論が出ないまま論争は繰り返されている。、

高句麗の南征
当時碑文の背景になる韓半島3ヶ国関係を整理しておこう。碑文の辛卯年(391年)から5年が過ぎた396年、広開土大王は、 強力な水軍を率いて京畿道に上陸し、百済を攻撃した。百済の多数の城を占領し、この戦闘は高句麗の勝利となったのである。 このような戦争が続いたのは25年前の371年からで、百済の近肖古王(百済13代王)が率いた3万名の軍事により、高句麗は 平壌まで攻撃され。広開土大王の祖父である故国原王が亡くなってしまい、それから高句麗は百済に対して持続的な戦争を続けて行った のである。百済の北方領土(現ソウル地域)をほぼ占領した広開土大王は、さらに南に大々的な征伐を進め、新羅も高句麗の勢力圏内 に編入されるようになった。広開土大王碑文には百済を服属させたのは、倭つまり日本でなく高句麗であったと言える。当時倭は 倭寇等で呼ばれていた少数分散的略奪集団で、百済と新羅を審問にする程の大規模な軍事集団を持っていなかった。従って 広開土大王碑には新羅を侵略した倭を高句麗が退けたという内容がいくつも出てくるのである。よって広開土大王碑で わかった高句麗の南征事実を通じて、当時の酒匂少尉の拓本通り広開土大王碑は、任那日本府が韓半島の南側を支配していたという事実はなかったことを 語る証拠であるといえる。

日本書紀の"日本府"と"安羅国"
日本書紀は任那日本府と安羅日本府を一緒に記録している。この安羅(今の咸安)は韓国南部にあった安羅国のことで、 南海岸とつながっていた海上交易の要衝であった。当時の伽耶地域の盟主国・金官伽耶の滅亡(4世紀末)の5世紀からは、 実際に伽耶地域を代表していた安羅国の存在は、三国史記や三国遺事などの各種記録から明らかになった。当時作られたと見られる 咸安の巨大な古墳群は、新羅の王級の墓に匹敵するほどの規模を持っており、安羅国勢力を伺わせる。また古墳からは5〜6世紀 頃と推定される安羅国の独特な咸安式土器や鉄の鎧などが出土しており、任那日本府説と関連、咸安地域はもちろん金海や高嶺、 釜山など伽耶地域全体の発掘作業が行われたが、日本遺物の前方後円墳の日本式墓など、日本支配の証拠になるものは一切 発見されなかった。安羅国は新羅の伽耶地域に吸収される6世紀末まで独立的な勢力を維持していたと考えられる。 また、日本初期に日本府は"大和の御事持"であると記録していることから、日本府は総督府のような軍事統治の支配組織ではなく、 王の使臣を称するものであったことが確認できた。これは日本が伽耶出身で、主に吉備、河内地域にいた伽耶系日本人を外交使節として 安羅に派遣し、鉄器や土器の輸入を担当させていたと考えられる部分である。一方安羅国はこのような日本との特別な関係を利用し、 百済と新羅との対外関係にも活用したと言われている。

辛国神社
大阪にある辛国神社は、伽耶人たちが交流の多かった日本に移住したした6世紀頃、故郷を偲びながら祖先を祀っていたのが始まりである と伝えられている。特に安羅国が滅亡する6世紀末、多くの伽耶人が日本に移住し定着していたという。従って日本が伽耶の鉄器文化 に影響されたのは、北九州博物館や奈良の橿原博物館に展示されている鉄製の鎧や兜から確認できるが、これらは大抵5世紀頃 作られたもので、伽耶のものより100年も後れて伽耶の鉄と技術で作られたものである。この他にも伽耶の鉄と先進文物が、 日本の古代国家形成に決定的な役割をしたということは、様々なところから推定することが出来るであろう。また日本で伽耶土器と知られている 須恵器の大量出土は、伽耶の須恵器製造集団の日本移民を意味するものであろう。こういう関係から考えて古代日本が古代韓国を 支配したということは、考えにくいのではないだろうか。

任那日本府切の証拠とされていた広開土大王碑文にも日本書紀にも、また伽耶地域から確認した文献や考古学的遺物からも、任那 日本府を明確にする証拠はなかった。むしろ任那日本府の真実を追跡しながら確認できたことは、任那日本府は日本書記の欽名記に 書いてあるように、"安羅諸倭臣"で、鉄と土器など先進文化を必要としていた古代日本と古代韓国との交流の窓口としての 歴史であった。日本が外国を称するに"から"(韓・唐)を使うようになったのも、安羅国との関係が影響したのではないだろうか。 日本でも信憑性を失いつつある任那日本府説を原点からもう一度考え直してみる必要があると思う。