謎の製鉄王国:大伽耶

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高句麗、百済、新羅が肩を並べていた三国時代、韓半島の南部地方には"伽耶(加羅、賀羅)"という名前をもった 諸国が存在していた。しかし伽耶についての独立した歴史記録は、当時の歴史書「三国史記」からも見当たらないなど、 史料が大変不足しているという。伽耶諸国には、前期金官伽耶とともに伽耶諸国を最後まで主導していた大伽耶があった。 今回は大伽耶がどういう国で、歴史のなかにどう消えていったのか、その最後の太子"月光"の生涯を通じて、謎の王国 伽耶について考えてみたいと思う。

局司壇
韓国南部(慶直南道 伽耶山)にある大寺刹として有名な海印寺には、大伽耶の始祖神である"正見母主"(大伽耶王を産んだ伽耶山神) を祀る「局司壇」がある。海印寺はこの祀堂を母体に、大伽耶の子孫によって創建されたもので、これまでに7回の火災があったが、 中の「局司壇」は神秘の壇とも言われている。またまたこの一帯の近くには、大伽耶の太子である月光が創建し、晩年を過ごした と伝えられる月光寺もあるなど、伽耶山一帯には海印寺をはじめ、大伽耶と関連のある説話が伝えられる場所がいくつもある。

大伽耶
当時、伽耶の名前を持った国は嶺南地方(現在の慶尚道)を中心に金官伽耶や阿羅伽耶など10ヶ国ほどあった。これらの国は連盟を形成し、 その前期は金官伽耶が中心勢力であったが、後期に入ってからは大伽耶が中心勢力となった。 海印寺から車で20分ほどの距離に、当時伽耶連盟を引っ張っていた大伽耶の中心地であった高霊がある。また高霊邑内池山洞には主山 という山があり、その尾根筋には巨大な古墳群が形成されている。その古墳群の中で特に32号墳からは、天井などからハス(?)の花 が描かれた壁画が発見され、記録には残っていないが6世紀頃、大伽耶に仏教が入っていたことを裏付ける証拠となった。 一方、44号墳は予想もしなかった高さ6m、直径は27mにも及ぶ殉葬墳であった。この巨大な墓に支社のほか殉葬された人は最少で 35名ほどと推定されている。また各古墳から発見された遺物らは、伽耶の優れた鉄精錬技術をみせる鉄の鎧や各種の華麗な金の飾り 製品等、大伽耶の高い文化水準と力を代弁するものと評価されている。

于勒12曲
大伽耶の高霊出身である楽聖于勒は伽耶琴をはじめて作った後、嘉実王の命令を受け、「于勒12曲」を作曲した。 作曲された12曲の題目は当時の伽耶の地名を表したもので、嘉実王が音楽を通して大伽耶を統合しようとしたことがわかると専門家は言う。 また「于勒12曲」が大伽耶の領域をあらわすと言われる証拠として、領域の各地からは大伽耶式土器が出土している。特に円筒形土器は 大伽耶の独特なものであったため、円筒形時の分布図が大伽耶の領域であると推定することもできるという。また土器は大伽耶の政治的 同盟関係も表すが、大伽耶がこれほど急成長した大きな理由は、大伽耶の領域全般が豊富な鉄の産地であったからである。こういう背景から 5世紀から大伽耶は、日本とも交易をしたと考えられている。その証拠として、日本各地で発見されている土器や金銅製の飾りが挙げ られているが、その形が高霊で出土したものと非常に似ていた。同時期、大伽耶は独自的に中国とも交易をしており、その記録が「南斉書」にある。

最後の太子
本来大伽耶は、伊珍阿棺王が道説智王まで520年間の歴史であるが、正史の記録には始祖と最後の王の名前だけが記されており、 詳しい王系が把握できない。しかし「釈利貞伝」(海印寺創建主の伝記)や「三国史記」などの記録を整理してみると、まず大伽耶の 始祖である伊珍阿棺王を産んだ元始祖は、伽耶山神である正見母主だ。そして大伽耶の最後の太子であった月光は、新羅との結婚同盟の成立 (513年頃、百済の攻撃に危機感をおぼえた大伽耶が、新羅の要請によって成立させた同盟)で、新羅人の母と父である異脳王(大伽耶 9代)との間で生まれたのである。しかし7年後、結婚同盟は新羅により破棄され、大伽耶は百済と新羅の両国に滅亡させられる危機意識 をもつようになったという。その後、新羅に裏切られた大伽耶は全体的に親百済的政策を推進していくが、これに反発した勢力の一部が 新羅に亡命を始めた。楽聖于勒はこの時新羅に亡命した代表的な人物で、新羅人の母をもつ月光太子も新羅に亡命しなければならない状況 であったと伝えられている。

道設智王
当時新羅は戦略の要地である漢江(ソウル中心を流れる川)流域の確保のため、120年間続いた百済との同盟関係を一方的に破棄し、 百済領土であった漢江流域を占領した。百済はこれに報復しようと管山城(現在韓国中部にあたる新羅の城)を攻撃した。この戦いは、 亡命し新羅の将軍として活躍していた月光太子の運命に、もう一回変化をもたらした。この管山城の戦いには大伽耶も百済軍と連合し 参戦していたが、戦いは百済の大敗北に終り、百済の聖王(武寧王の息子)が戦死した。そして562年には新羅が管山城の戦いの参戦を理由に 大伽耶を攻撃し、滅亡させた。結局管山城の戦いが大伽耶の没落を招くきっかけとなったのである。 その後新羅は焦土化された大伽耶の亡国民衆を慰めるため、大伽耶の亡命太子の月光を大伽耶の王に一時即位させた。 つまり月光太子が滅亡した祖国の実験のない王になり、これが「三国史記」の記録が伝える道設智王だったのである。 しかし大伽耶を完全掌握した新羅によって彼はすぐに王位から降ろされ、その後 晩年を過ごしたのが伽耶山の月光寺であった。月光寺は大伽耶の始祖神の廟がある場所でもあって、大伽耶人には聖地として認識されていた場所 であった。大伽耶の聖地の伽耶産で晩年を過ごしながら、僧侶になった月光太子。彼の悲運の生涯とともに燦爛であった560年間の 伽耶の歴史も忘れかけていた。しかし持続的な研究により、謎の伽耶史は少しずつその姿を現している。