百済の武寧王と淳陀太子

BACK][座談会案内][NEXT

百済の第25代武寧王と王妃の墓で知られる武寧王陵は、発掘から今年で32年を迎えており、発掘された多くの 遺物は、韓日古代史の秘密を明かす重要な鍵となっている。その様々な遺物の中から今回は、唯一の遺骨として 発見された"歯"がもつ疑問とミステリーについて考えてみたいと思う。

知歯の正体
華麗なはすの花が模様されている煉瓦が特徴の武寧王陵から、たった一つの遺骨とされる奥歯が発見された。 この発見は、考古学的にもとても異例なこととして注目されている。発掘当時、歯科専門医らの検証により、 発見された歯はその大きさなどから、一旦17歳くらいの女性の奥歯と発表された。 また、あご骨の歯茎の外に出ていなかった知歯(親知らず)であることがわかった。つまり武寧王妃の歯であっただろうと 推定できるが、葬られた当時、62歳で亡くなったとされている武寧王妃が、17歳であったということについては、 考古学的資料がなく断定が難しい。武寧王妃の年齢が推定できるもう一つの手がかりである墓の棺の前においてあった誌石 には、王妃の死が「壽終」と記録されており、中国の記録からその意味が"老いて亡くなった"であると判明したことから、 王妃の当時の年齢は推定30歳は越えていたであろうと考えられている。

聖王の母
「百済国 王太妃 壽終」と武寧王妃の誌石には、百済の王太妃が亡くなったということが、明確に記録されている。 またその記録にある"太妃"というのは、武寧王の息子であった聖王(?〜554 百済第26代王)の母の呼称であり、 「三国史記」の「百済本記」によると聖王は"武寧王之子"であるとしている。"之子"とは王の正妻の長男を除いた息子たちの呼称で、 聖王が武寧王の長子ではなかったということは、他に長男が存在していたことを意味する。またその存在は、当時の 武寧王妃の年齢を推定する重要な手がかりとなる。
武寧王陵から出土から遺物のなかに、王妃の身分が確認できる手がかりとなるブレスレツトが発見された。 武寧王妃は生前、王妃だったにもかかわらず、ブレスレットには"大夫人のために作った"と書かれていたのである。 古代日本でも皇族出身でない、豪族出身の王妃の場合は、皇太后ではなく、皇太夫人と呼ばれていたことが「日本書紀」に書いてある。 武寧王妃も日本の場合と同様、身分上豪族の出身であったのでそう呼ばれていたのではないだろうか。また武寧王陵から 発見された誌石にも、武寧王の場合は皇帝の死に対する公式表現の「崩」を使って誌の日時を伝えているが、武寧王妃の場合は、 王と王妃の死に対する公式表現である「薨」ではなく「壽終」と記録している。身分上「薨」は使えなかったのではないだろうか。 にかく身分のせいで生前王妃ではなく大夫人と呼ばれ、そのまま死を迎えることになるが、亡くなった後、息子聖王のの存在によって 太妃と記録されるようになったのであろう。また「日本書紀」には武寧王妃の息子である聖王が、554年管山城の戦いで亡くなったと 伝えており、その時、聖王の長子"昌"(威徳王(?〜598) 百済27代王)は29歳であつたと記録している。専門家らはこれらの記録から、 人間は普通20代に子供をもうけると見て計算、武寧王妃は504年に聖王を産み、亡くなった時は42歳くらいと推測する。 また武寧王妃は武寧王が501年(40歳)、王に登極してから結婚した人で、武寧王の最初の夫人ではないことが推定できるという。

淳陀太子
2001年12月23日、日本の今上天皇は、桓武天皇の生母が武寧王の子孫であるとしている「続日本紀」の記録に韓国とのゆかりを感じる と会見し、韓日両国に大きな反響を起こした。また「日本書紀」には武寧王が日本福岡の加唐島(かからしま)で生まれたと伝えており、 その島には現在もその伝説を語る様々な証拠が残っている。その後武寧王は日本の島で生まれたことから、島の音を借りて"斯麻"とも呼ばれていた といわれている。しかし武寧王が加唐島(加羅島)で生まれた後、百済の武寧王に即位した40歳になるまでの行跡は知られていない。 一方「続日本紀」や「日本書紀」に武寧王の息子と書かれている淳陀太子は、武寧王の20代の初婚で産んだ息子と考えられる。 また淳陀太子は父武寧王が52歳であった513年に死亡したと伝える記録から、死亡当時、30歳を越えていたと推定されている。 つまり、武寧王は日本で子孫をもうけた可能性が高いと考えられる。
それでは武寧王の日本での子孫たちは、どこで生活していたのだろうか。「続日本紀」によると桓武天皇の生母、つまり光仁天皇の 皇太后の高野新笠は、姓は"和"で名前は"新笠"であった。日本貴族の族譜「新撰姓氏録」によると、"和氏"は武寧王人で 、はじめは久度神社(大阪と奈良の間の神社)で祀られたが、後に平城京(奈良)の宮闕に移し、皇太子が直接祭祀を行ったという。 8世紀桓武天皇によって平安京(京都)へ遷都した後は、平野神社に移され、今も平野神社では百済系渡来人を祀っている。京都には 現在も桓武天皇の生母、高野新笠の墓がある。

韓日古代史の真実
百済の中興を成し遂げた武寧王の王陵は、発掘当時(1971.7)からさ間ざまな疑問が議論されてきた。 なかでも発見された奥歯一つの研究は、これまで隠されていた日本での武寧王の家族史を明らかにした。 よって行跡が知れないままであった武寧王の生まれてから40歳までの、斯麻としての行方についても、日本で成長し結婚して 淳陀太子をもうけ、またその淳陀太子を通じて子孫を繁盛させた可能性が高くなったと専門家は言う。この事実は古代韓日関係において 、特に日本天皇家と百済王家の関係においても、とても重要な意味をもつ。まだ様々な疑問と多くのミステリーが絡んでいる韓日 古代史の真実は、武寧王の韓日に残ったそれぞれの家族関係がより詳しく明らかになることによって、両国の関係をより近づけるの ではないだろうか。歴史と言う過去と現在をうまくつなげ、明るい未来が開くことを願う。