朝鮮水軍、対馬の倭寇討伐

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朝鮮初期、日本をはじめとする東アジアの情報を網羅している「海東諸国記」(1471年政治家申叔舟(1417-1475)が編纂)には、 天然要塞と言われていた倭寇の本拠地である対馬の地図が載っている。高麗末から朝鮮初期まで、500回以上の侵略を恣行した 対馬の倭寇を討伐するため朝鮮は、ついに大規模の遠征艦隊を編成した。

対馬の倭寇
朝鮮初期、李従茂((1360-1425)朝鮮の武臣)の大規模な討伐戦争の現場である日本の対馬は、韓国釜山から最短で49.5キロ 日本の福岡からは134キロで、距離的には韓国側に近い島である。しかし高麗末、高麗とモンゴルの連合軍による日本征伐後、 高麗との正常貿易が難しくなり、大変な物資不足に苦しんでいた対馬の人々は略奪を始めた。その対馬の海賊つまり倭寇を討伐 するため、朝鮮は軍事を起こしたのである。



見乃梁出征
見乃梁は、巨済島(慶尚南道鎮海湾に位置)と慶尚南道の固城との間の狭い海のことだが、巨済島から引き潮の流れに乗り、 大韓海峡から北東へ流れる黒潮海流に乗れば、たやすく対馬の中心までつけたという。つまり、巨済島に囲まれ敵の観測 視点から離れており、堅固な防衛施設で征伐軍の安全を保障しながら、潮流と海流の流れを利用できた見乃梁は朝鮮水軍に 大変有利な場所であった。それが、対馬征伐軍がより近距離であった釜山浦ではなく、見乃梁に集結した理由であった。

朝鮮水軍の対馬上陸
対馬討伐を担当した李従茂水軍の訓練と戦略については、記録がほとんど残っていない。しかし当時の朝鮮の王(太宗)は、 戦艦の改良事業や陣法訓練に多くの関心を持っており、遠征艦隊の司令官李従茂が載っていた艦船は、100余名が乗れた。 堅固な構造をもった当時最高の戦艦であったといわれている。体系化されていた動員システムと優秀であった戦艦が、 倭寇の本拠地対馬を討伐させた力であった。巨済島を出発した朝鮮水軍は、海流に乗り一日で対馬に到着した。対馬は 97%が山で、非常に複雑な海岸線を持つ島である。このような地理的条件に助けられ、当時対馬は外部の勢力に簡単には 占領できない独立性を維持していた。そこで朝鮮水軍は対馬から帰化した日本人を案内役にたたせた。対馬に上陸した遠征隊は 、敵船129隻の焼却や倭寇120余名射殺、131人の中国人の捕虜の救出など、倭寇を撃破していった。しかし対馬の 複雑な地形に詳しくない朝鮮の水軍は、敵の埋伏にかかり180余名の戦死者を出した。 この敗戦については日本側にも記録が残っている。またその記録によると、当時日本の本土では、朝鮮遠征艦隊のことを150年前の "蒙古の襲来"と同じような朝鮮と中国(明)の連合軍と把握していたと言う。

倭寇討伐の外交的複線
倭寇の根拠地を討伐するため遠征隊を派遣した朝鮮だが、それ以外の理由はなかったのだろうか。 東京大学の史料編纂所には、当時の倭寇の実情がわかる「倭寇図巻」という絵巻が保管されている。この絵巻には中国(明)に現れた 倭寇の出兵と航海や、上陸と略奪の全過程がとても緻密に描かれている。明は倭寇の激しい略奪に、海禁政策つまり海を統制し、 倭寇の船の海岸への接近を禁じたのはもちろん、私貿易も一時禁止させた。 これに打撃を受けた倭寇は、東南アジアにまで活動の範囲を広げていくことになり、ついに明は元(蒙古)の日本侵略と同じような 日本(倭寇)征伐を始める意志を、朝鮮に伝えてきた。しかし朝鮮は明が日本征伐のための軍事を起こすと、朝鮮が膨大な負担を 負うことになると考え、独自的に倭寇の本拠地である対馬の先制攻撃を行い、倭寇の海賊活動を阻止することによって、 明の日本征伐の名分そのものを無意味化した。

倭寇の帰朝と遠征艦隊の撤収
対馬の上陸作戦に成功した李従茂の朝鮮征伐軍は、長期戦を準備しながら、対馬に駐屯していた。しかし遠征軍は対馬についてから 、10日目に倭寇の降伏により撤収した。朝鮮初期に製作されたとされる「混一疆理歴代国都之図」は朝鮮と中国、日本の各地図 をあわせて作った世界地図で、比較的朝鮮の南海岸の島が詳しく描かれており、その中には対馬が含まれている。一方、当時日本人が描いた 地図には対馬が抜けていた。つまり対馬が朝鮮の領土と思われていたというのは、当時日本人が描いた地図からもあらわれているといえるであろう。 豊臣秀吉が朝鮮侵略のためにしようした地図でも、対馬は朝鮮の領土として描かれていたという。また対馬征伐を宣布した朝鮮は 当時の記録で、対馬の領土が朝鮮領土であるという認識を強調しながら、倭寇の降伏を慫慂した。結局倭寇は降伏し、 彼ら自ら朝鮮政府に帰属されることを望む者もあらわれたという。従って、それ以上対馬に駐屯する必要性がなくなった朝鮮側は、 直ちに撤収したとみられる。(対馬が正式に日本領土となったのは、明治時代以降と知られている。)

対馬討伐、それは10日間の戦闘に過ぎないものであったが、高麗末から続いた倭寇問題に終止符を打った遠征であった。