土偶に見られる新羅人の暮らし

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2001年7月慶州の競馬場の建設予定敷地であった1500年前の新羅の窯跡から、動物や人の姿をしている 多様な土偶が発見された。土偶が墓でなく、窯跡から発見されたのは初めての事例である。これは 土偶が副葬品だけではなく、新羅人の実生活とも密接な関係であったことを意味する。

土偶
新羅の遺物には、雄壮な仏国寺(慶州に位置、1995年世界文化遺産目録に登録)や派手な金冠(金冠塚の金冠など) のような規模が大きく華麗なものが多いが、土偶は土をこねて作った大人の指くらいの人形で、新羅の遺物の中では珍しいと言えるほど 、小さくて素朴なものである。国宝に指定された長頚壷(新羅時代、土偶付土器)の飾りにも土偶が使われており、 その形も様々である。古代三国のなかで新羅にだけ存在していた文化である土偶には、1500年前の古代王国新羅の姿が残されている。

新羅の性の表現
土偶は一般生活と非常に密接であったため、生活のすべての部分を正直に表現している。 例えば、恋する男女の姿などは、あまりにも露骨な性生活の表現に、現代人も驚くほどだが、死後も 人間の快楽を追及するという意味での表現であるため、土偶が表す性は、陰密または羞恥なものではなく、日常的なものとして 諧謔を加えたものになっている。労働力が最も重要であった古代社会で、子孫の繁栄はなにより重要な徳目であり義務であった。 当時の人間の性的特徴を強調した土偶にもあらわれている新羅人の恋の姿は、新羅人が幸福な性を享受した象徴の一つである ともいえるであろう。



新羅の楽器
土偶には琴を演奏する姿を表現したものが多くあるが、これらは4〜5世紀に製作されたもので、 伽耶琴が新羅に伝わる(6世紀)前に伽耶琴と類似な楽器が新羅にもあったことがわかる。 この新羅の琴について「三国遺事」(13世紀に新羅、高句麗、百済の遺事を集めて書いた歴史書)は、琴の保管箱を 人が入れるくらいと記録しており、実際日本の正倉院には長さ187.5cmもある新羅琴櫃が残されている。 6世紀以後、伽耶琴が伝えられてから、新羅琴はより水準の高い楽器に改良され、伽耶琴は弦が12本と決まっているが、 土偶に表現されている新羅琴は弦が3本、5本、6本と様々である。 土偶には琴以外にも管楽器も登場するが、表現されている楽器は、楽器の大きさによって演奏者の動作をきちんと表現しているため、 その種類の区別がはっきりつくという。 土偶にこのような楽器が登場しているのは、新羅人の生活の中に音楽が深く浸透していたということを 意味する。高句麗には玄琴、伽耶には伽耶琴、そして新羅には新羅独特な新羅琴があったのである。

新羅人の精神世界
土器の飾りに使われる土偶には、蛇が蛙の後ろ足を噛んでいる姿がよくみられるが、蛇は再生と不滅を、そして蛙は卵をたくさん産むことから 多産を象徴しており、蛇が蛙を噛んでいるのは多産と不滅が一つになったことを意味するという。 また新羅人に、亀は霊魂を来世に案内するものであり、龍は国を守る守護神であった。中には仮面をかぶった土偶も見られるが、 一般的にもう一つの人格または神の顔を表現する仮面は、新羅でも呪術的重要な道具であったということがわかる。 1500年前も今も人間は永生と豊かを望んでおり、新羅人は死後も幸福の継続を願って土偶に生前の喜怒哀楽を表現したのである。

新羅人の狩猟
古代新羅人に狩猟は自然との戦いでありながら、主な経済活動の一つであった。 しかし狩猟だけでは限界があったため、野生動物の飼育を始めるようになる。家畜化した動物の中でも代表的なのが豚で、 土偶にも多様な形態の豚が多く現れている。一番古くから家畜化されたとする犬の場合はペツト用、護身用、食用などと その目的が区別されていた。また土偶には鯉や鱸などの魚類も多く現れており、食糧確保手段として狩猟だけではなく、漁労活動も 盛んであったことがわかる。土偶で表現されている動物の中には、象や猿のようにもともと韓半島にはいなかった動物もある。 想像で作ったとは考えられないほど、各動物の特徴を正確に表現しているところから、当時の外国との交易事情が推定できる。

土偶と土俑
1986年慶州周辺の古墳から、7−8世紀の統一新羅の王族の墓から出土している土偶とは違う遺物が、多量に発見された。 学者らはこの遺物を土偶ではない土俑と分類する。土偶と土俑の違いは、一般に人形に表現された服飾の形を中心に語られるが、 持つとも大きな違いは殉葬との関連があるかどうかである。つまり'偶'は人形やかかしを意味し、'俑'は殉葬に代わる人形 を意味するのである。また製作方法にも違いがあって、土俑が鋳型で作ってその形が一定であるに比べ、土偶は格式にこだわらず自由に 作っていたため、形一つ一つに個性がある。また長頚壷からも見られるように、土偶は壷などの土器の飾りに使われたのが一般的である。

土偶は新羅が強力な古代国家として拍車をかけていた5世紀頃、集中的に作られた。その後三国が統一され、 時間の流れと共にその姿は消えていったが、土偶が新羅固有の文化であることに変わりはない。また韓半島の 陶術文化の始まりとも言えるであろう。高句麗人が古墳壁画に彼らの生活と文化を描いたとすると、新羅人は土で作った 土偶で1500年前の自分らの姿を残した。土偶は楽天的で率直であった新羅人の人生をそのまま表現した独特な文化遺産である。