壬辰倭乱秘史−日本軍と戦った日本軍

BACK][座談会案内][NEXT

1592年4月に始まった壬辰倭乱(文禄・慶長の役)についての歴史書物は実に様々であり、 とりわけ「宣祖実録」(倭乱当時の朝鮮国王在位41年間の記録)は壬辰倭乱当時大変貢献した人物の名前まで記録している。 しかし不思議なことにそこには韓半島の人とは思えない日本名(沙也可、平仇老、山如文など)が並んでおり、 歴史書物はその人たちのことを"降倭"と表記していた。朝鮮と日本との7年間の戦争、 その朝鮮勝利の裏には日本軍と戦った日本軍が存在していた。

沙也可
豊臣秀吉が朝鮮侵略をした1592年4月、加藤清正軍に従って釜山に上陸したある武将が上陸後直ちに 「このような不義の戦には従えない」と秀吉に反旗をひるがえし、自分が率いていた兵士とともに朝鮮軍に投降、 帰順した。その名は日本名・沙也可(さやか)という。
朝鮮に帰順した武将沙也可は、そのまま朝鮮に住みつき、朝鮮軍の兵士に鉄砲の使い方を教えたり、鉄砲、火薬の 製法技術の指導などをしていた。また、朝鮮軍とともに朝鮮の国を守るために戦い、その戦功により功臣として敬われ、 朝鮮王から金忠善という姓名と官位を授かるほどの忠臣であった。彼については日本でも歴史的人物として大変 注目しており、司馬遼太郎の「韓のくに紀行」や神坂次郎の「海の伽耶琴」などを通じて日本の一般大衆にも、その存在が知られている。 さらに朝鮮出兵400周年を迎えた1992年には日本NHKが、沙也可に関するドキュメンタリーを製作放送し、日本全域に 反響が巻き起こったという。その後2000年2月、日本では横浜を中心に「さやか会」が発足され、当時の沙也可の 投降の意味を正しく伝えながら、韓日相互の歴史と文化の探求を通じて理解を深め、両国の友好親善に寄与するための活動が 行われている。

慕夏堂文集
「慕夏堂文集」は沙也可こと金忠善が、生前書いた日記と詩などを集めたものである。この文集によると1592年、 韓半島侵略のため出兵した加藤清正の軍隊が、釜山に上陸した当時、加藤清正の麾下の先鋒大将であった 沙也可は釜山上陸後、慶尚道(韓国南部)左兵使朴晉に講和書を送り、投降の意志を明らかにした。 その後沙也可は、朝鮮軍に投降しながら、鉄砲(鳥銃)及び火薬製造技術を伝授し、後には鉄砲部隊を編成して 、対日戦で功績を挙げた。また1597年の蔚山城の戦いでは加藤清正の第一部隊を殲滅するなどの功績を残し、 今の副大臣にあたる官職にまで昇ったという。
日本の武将であった沙也可は、朝鮮の礼と義そして大陸の文化を慕うという意味の慕夏堂を雅号に付けるほど、帰順後の 人生を、儒教的生活を通して、徹底的な朝鮮人・忠善としておくったのである。

鈴木孫市郎(?)または原田信種(?)
「慕夏堂文集」には沙也可が、日本ではどういう人物であったのかについては全く書かれていない。そのため、 彼の日本での正体についてはいくつかの説がある。歴史小説「海の伽耶琴」の著者でありながら、 「古式銃研究会」の顧問でもある神坂次郎は、沙也可のことを、戦国時代に今の和歌山県の雑賀(沙也可の語源) に存在した日本最強の鉄砲部隊を率いていた鈴木孫市郎であると主張する。 一方、福岡西南学院大学の教授は、加藤清正の麾下の"与力"という特殊部隊の原田信種という将帥であったと主張している。 その裏付けとして、九州の名門原田家門の族譜からは、原田信種が朝鮮に出兵した内容と、その後は行方不明である という記録が発見されており、これは韓半島での死亡、あるいは投降した可能性を意味するという。さらに原田信種の 朝鮮出兵部隊員には、鉄砲部隊もあったため、原田信種が沙也可と同一人物で、その鉄砲隊員まで連れて投降したとすれば、 鳥銃技術の伝授が沙也可であるという説の可能性は十分高くなる。

降倭の功績
朝鮮が開戦一年後から当時の先端新兵器鉄砲の製造技術を入手し、戦勢を逆転させ、7年間の戦争を勝利に 導いたのは、降倭のおかげである。降倭には秀吉の朝鮮侵略に反発した沙也可のような者も多かったが、 なかには朝鮮政府の積極的な降倭誘引政策の影響による者も多くいた。後には小西行長の弟までもが 一時降伏を考慮したほど、日本の兵士らは戦意を喪失していたという。
蔚山城の戦い(1597年)の総攻撃を敢行した5万余名の朝鮮と中国(明)の連合軍には、沙也可をはじめとする 降倭が150名ほど含まれていた。彼らは倭城の構造や日本軍の戦術を把握しており、「宣祖実録」によると 当時戦いに貢献した降倭には、朝鮮人である徴表として朝鮮の名字と名前が与えられたという。当時名前が与えられた 降倭の数は一万名を超えるといわれているが、現在沙也可以外の降倭に関する痕跡は、韓半島のどこにも残っていない。 それはおそらく彼らの大抵が帰化後、自分等が日本人であることを隠して暮らしていたからであろうと専門家は推測する。 そのため、彼らの後孫すらも自分等の祖先が降倭であったことを知らないという。しかしこの壬辰倭乱での彼らの活躍は、 決して看過できない重要な出来事であり、認識を改めなければならないと思う。