古代国家の外交信任状−環頭大刀

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1971年、1500年間眠っていた武寧王陵が原型のまま発見され、世間を驚かせたが、 今回は当時の百済文化をあらわす遺物とともに出土した王の左腰にあった大刀、環頭大刀について考えてみたいと思う。 百済、新羅そして伽耶地域で多く出土されている華麗で美しい文様の環頭大刀を通じて、古代国家においての、 大刀の歴史的意味と当時の韓半島と日本との政治的関係を探ってみたいと思う。

身分証明書の環頭文様
新羅最大の古墳である皇南大塚(新羅の古墳、慶州に位置)の中からも、いくつかの環頭大刀が発見されており、 三つの忍冬草葉文様のものは三葉環頭大刀、三つの環の文様のものは三累環頭大刀と名付けられている。また 皇南大塚以前のものと推定される天馬塚(1973年に発見された新羅の古墳、慶州に位置)から、三累環頭大刀とは 違う鳳凰模様の大刀が発見されており、同じ時期の壷棹塚(慶州に位置)からは龍文様の龍文環頭大刀が発掘された。 龍と鳳凰模様は三累・三葉模様と違って、王の大刀に刻まれた模様と推測できる。三累・三葉文様は、慶州から 離れた地域にも広まっており、当時の将軍や地方豪族らまでもがそのような文様の大刀を所有していたと考えられている。 また当時新羅の軍制の上下または中央と地方によって、環頭の模様は違っていたであろう。 とにかく取っ手の派手な飾りと繊細な文様の環頭大刀は、王そしてそれに近い勢力家らが所有していた威勢の品であった といえる。

最先端ハイテク
発掘された環頭大刀の大抵は刃の棄損状態が激しいが、これは鉄製遺物の限界である。三国時代のさび付いた 大刀の刃の切れ端を顕微鏡で観察してみると、刃が多重になっていることがわかる。つまり環頭大刀は、 熱した鉄を叩いて、広げた鉄に形が整うと折り畳む作業を幾度となく繰り返してつくる丈夫なものであった。 この製作には大変多様な技術と技法が必要であり、すべて手作業で行われるため、高度な金属工技術も必要であった。 また木製の鞘には漆を七回以上も塗って完成させるなど、当時の大刀は最先端の金属工術も木工術などの総合技術製品 といっても過言ではないものであった。

政治的意味
慶州の王陵では一度に多量発掘された大刀が、江原道の江陵からは一本しか発見されていないが、 これは当時の慶州と江陵地方の秩序関係を表しており、慶州からみた江陵は、需要拠点であったことがわかる。 このような例は新羅の多くの地域から見ることができる。5世紀当時、新羅は高句麗の影響圏の下にいたため、 その影響圏から離れるために対外的には百済と同盟を結び、対内的には地方の豪族勢力を引き入れようとしていた。 この時、政治的象徴物として使われたのが環頭大刀である。つまり政治的上下関係を持つなかで、下賜品として使われた 環頭大刀は、外交信任状であったことがわかる。

七支刀
日本で発見されてから、現在日本の石上神宮(奈良)に国宝として保管されている七支刀は、左右交互に各3個の分枝をもつ 特徴がある。また刀身の表裏両面の銘文の解読については、刀の移動を下賜なのか献上なのかについて、様々な案が 出されているが、どちらにしろ百済の王から日本の王に渡ったものであるには間違いない。 また七支刀の他にも日本では多くの環頭大刀が発見されており、環頭の龍の文様など、その形が韓半島の環頭大刀と 非常に似ているという。環頭大刀に対する研究は日本でも高まっており、日本学界ではその成果として、 環頭大刀の系統図を発表した。韓半島より100年遅い6世紀半ばから、日本全域で見られるようになった環頭大刀を、 4段階に整理した系統図には驚くことに一番上を、武寧王陵で発掘された環頭大刀と同じ系列の環頭大刀が占めている。 当時の日本には、高度ハイテクの環頭大刀を製作する技術がなく、韓半島から直輸入していたと考えられる。 その後日本の環頭大刀は約80年に渡って多量生産を行い、その結果環頭の文様が徐々に単純化されるようになったという。

日本環頭大刀の政治的意味
日本の金鈴塚(千葉県木更津市に位置)は6世紀後半の古墳の一つで、地方豪族の墓と知られており、 中からはその規模にふさわしい金銅の副葬品が沢山出土した。遺物の中には環頭大刀も発見されているが、その文様は 極めて単純化されており、龍と鳳凰の区別もつかないほどであったという。日本で環頭大刀が多くあらわれるようになった 6世紀は、日本の激動期であった。頻繁な戦争の中、中央勢力は地方豪族に対する影響力を広めるため、韓半島と同じく、 日本でも中央と地域の軍事的同盟を確認させる象徴物が必要であった。それによる需要が増えるようになり、 大量生産が行われ、だんだん環頭大刀の文様が単純化されるようになったという。金鈴塚の環頭大刀の文様が 丁寧でなかったのもそのためであっただろう。つまり日本の環頭大刀も韓半島の場合と同じ政治的意味があったのである。

外交的信任状 環頭大刀
新羅は高句麗の勢力から逃れるため環頭大刀(三葉)を使い、高句麗の辺境豪族を勢力圏の下におこうとしていた。 また百済の場合も環頭大刀を外交に十分活用し、後には百済によって武寧王の環頭大刀の系列が日本に伝わり、 日本でも政治の象徴物となったのである。最高指導者に渡っていた環頭大刀は、当時最高の技術と芸術が一緒になって 作り上げた傑作品ともいえるほどのものであった。このように古代国家において環頭大刀は、単純な大刀以上の意味を 持っていた。また環頭大刀の韓半島から日本への伝来について、それまでの仏教や漢字などの伝播と同じ意味であるのか、 それ以上の政治外交的意味を持っているのかは、まだ不透明である。しかし古代韓半島で外交信任状として使われた 環頭大刀が、その後日本全域に広まったことは歴史に残っている事実である。