舞踊塚−高句麗が生き返る

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韓国の古代国家高句麗は、その時代の歴史的記録がほとんど残っていないため、その時代の古墳に残っている壁画が、 大変重要な史料として使われている。その中でも5世紀頃に作られたと思われる舞踊塚(広開土大帝(375-413)陵の 北西1キロに位置)の三面に描かれている壁書は、現在の韓国歴史教科書にも載っており、当時の高句麗の姿を 想像させてくれる。しかし惜しくも現在はその保存状態が良くなく、壁書の激しい棄損は次第に深刻化している。 1500年前、高句麗人は膨大な舞踊塚の壁書をどう製作したのだろうか。棄損されていく舞踊塚の壁書を影像製作で 復元させた姿と古墳報告書を通じて、当時の高句麗を振り返ってみたいと思う。

舞踊図
舞踊図には全体を指揮する人と歌手に見える歌う人たちや、踊る人たちが描かれている。 また踊っている人の手足のしなやかな動きは、現在の韓国の伝統舞踊にとても似ているという。 舞踊図から見られる高句麗の踊りを通じて、高句麗人らが築き上げたその文化も、繊細でありながらも、力強かった であろうと考えられる。このようなところから壁書は過去に戻れる鍵ともいえる。

接客図
舞踊塚が作られた5世紀初め、北の方では諸民族を征伐して古朝鮮(〜BC108年 韓民族最初の国家)の領土を 取り戻し、南の方では百済と新羅にまでその勢力を広げていた高句麗の絶頂の時期であった、 それでは高句麗の中心地(中国吉林省の通溝)に位置している舞踊塚の主人公はどういう人物だったのだろうか。 その推測を手伝う壁書が接客図である。 そこには料理が置いてあるテーブルをおいて客と主人公に見える人が会話をしている姿があり、主人公の頭の飾りや 付き添っている奴婢の様子から、舞踊塚の主人公は相当身分の高いものではないだろうかと考えられる。お墓の 主人公の生前の様子を壁書で表現し墓の中を飾るほど、当時高句麗は華麗で繁栄していた国であったことがわかる。

狩猟図
この壁書には舞踊塚の主人公が歌舞とともに狩猟も楽しんでいる様子が描かれている。また絵をよく見ると狩猟に先が丸い 鏑矢が使われていることがわかる。鹿の角や木でザクロの実のような形の鏃が特徴の鏑矢(鳴り矢)は、百済や伽耶の 遺物からも発見される高句麗の代表的な矢の一つであった。動物を殺すというより音で気絶させる程度に使われた鏑矢が、 高句麗の狩猟図に描かれていることから、高句麗人が娯楽として狩猟を楽しんでいたということと、 そういう生活が戦争がいつあっても機敏に対応させたのであろうと考えられる。

墓の片側の壁面全体を占めている この狩猟図は、発見当時から精巧で力強い事実描写が注目され、本格的狩猟図として古代壁書の中でも傑作と評価されている。

製作過程
舞踊塚は石で作られていたので壁面はとても粗い状態であったであろう。1500年も前、高句麗人はそのような壁面に 繊細な絵をどう描いたのだろうか。舞踊塚の壁書は下地の石灰が乾ききらないうちに鉱物性顔料で描く技法の fresco painting書法(西洋の壁書の代表的な技法)で製作されている。それはfresco painting書法が濡れた状態で 描くため石灰と顔料が一緒に乾き剥落防止に良いからである。しかし壁書全体を乾ききらないうちに描くというのは、 大変難しい作業であるため、舞踊塚の壁書はfresco painting書法(湿式)と、部分的には接着剤として膠を顔料に混ぜ、 石灰が乾いた後に描くという方法(乾式)を並行して行い、出来上がったものと考えられている。

キトラ古墳壁書
高句麗は当時天文知識が優れており、天文体系も西域や中国とは違う独創性を持っていたという。 その独創性は舞踊塚の天井壁書にもよくあらわれている。高句麗の天文図の痕跡は、世界で二番目に古い 石刻天文図である朝鮮王朝時代の「天象列次分野地図」にもあらわれており、「天象列次分野地図」の製作者 権近(1352-1409)は自分の記録で、高句麗の平壌城が陥落した時、河に落ちた天文図の拓本をもとに一部だけを 補完し製作したことを明らかにした。またこの「天象列次分野地図」の痕跡は、日本で1998年公開されたキトラ古墳の 天井壁書から見ることができるが、その天井の天文図の観察地点が、日本ではなく平壌ではないかと思われている。 また天井の天文図以外にも、壁の四面には高句麗壁書の特徴である四神図が書かれている。 こういったところからキトラ古墳は、高句麗壁書の影響を受け築造された可能性が高いと考えられる。
高句麗の壁書舞踊塚を通じて、当時の高句麗人の選民意識や豪放さ、そして高句麗の独自的宇宙観までも振り返ってみる ことができた。このように壁書は記録より正確な歴史であるといえる。