Weberの報告書:大韓帝国明成皇后の最期

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大韓帝国の皇帝である高宗(1852-1919)の皇后であった明成皇后(1851-1895)は、宮闕(景福宮)に乱入した日本人によって 1895年10月8日明け方、残酷に殺害された。しかし事件があってから既に100年余りが過ぎた今でも、明成皇后の殺害についての 具体的な真相は明らかになっていない。そのなかこの疑問を解く鍵となった報告書がロシアで発見された。 300余ページにも至る明成皇后殺害報告書には、当時の目撃者らの証言も加えながら、今まで知られなかった事件の 真相が細かく記録されていた。

ロシアのWeber公使の報告書
外交文書が時代別・国家別に整理されているロシアの対外政策文書保管所から、明成皇后殺害報告書が発見された。 文書の作成者は、当時駐韓ロシア公使として活躍していたCarl Weber。彼の報告書によって事件があった二日後、 (1895.10.10)、ロシアでもこの事件の内容は言論に大きく報道された。そして当時のロシアの首都、サンクトペテルブルク 市のある新聞には、Weber の報告書にも記録されていたG.Sabatin(当時高宗と明成皇后が日本の干渉を意識して、宮闕の警備を担当する西洋人の 宿舎として宮内に西洋館があったが、当時夜宿直をしていたロシア人)の目撃証言が載っていた。殺害現場にいた ロシア人Sabatinの証言と駐韓ロシア公使Weberの報告書によって、事件は世に知られるようになったのである。 万が一Sabatinの目撃がなかったとすれば、この事件は朝鮮王室の権力闘争として永遠に隠蔽されたことであろう。

朝鮮軍隊と興宣大院君は何故殺害現場にいたのか
明成皇后殺害Weber報告書には、明成皇后殺害事件に朝鮮兵士がいたと記録している。朝鮮兵士は訓練校 (1895年、日本の建議によって作られた朝鮮軍隊)所属の軍人のことで、朝鮮強奪を国家目的としていた 日本は、朝鮮軍隊を親日化させ、軍事力を掌握しようとしていた。これに気付いた高宗皇帝は、訓練隊を 殺害事件のちょうど一日前解散させた。それではこの解散に不満を持った訓練隊が、明成皇后を殺害する目的で 現場にいたのだろうか。これについて歴史の専門家は事件当時、訓練隊は鎮圧名目で動員されたが、 彼らに明成皇后殺害の事実は全然知らされていなかったという。結局訓練隊が殺害事件現場に動員されたのは、日本が訓練隊 に事件の責任を転嫁させようとした意図があったからであると考えられる。また明成皇后殺害事件現場近くにいた 興宣大院君(高宗皇帝の父で、一時期明成皇后と政治的対立関係にあった)は、ソウルの郊外で事実上隠遁生活を しながら、晩年を過ごしていたにもかかわらず、明成皇后殺害事件直後、明成皇后殺害主犯として注目された。 これについてロシア報告書にあるGustave Mutel(キリスト教ソウル主教、フランス人)の証言によると、 日本軍が強制的に大院君を明成皇后殺害事件現場である景福宮に連れていたとしている。また当時中国上海で発行されていた North China Herald紙も、明成皇后殺害事件と大院君とは無関係であり、むしろ大院君は宮闕に無理やり連れて行かれ、 罪囚のように監禁されたと報道している。つまり日本は、大院君と明成皇后の政治的ライバル関係から、大院君を 明成皇后殺害事件の主謀者、訓練隊は行動隊として利用しようとしていたのであると考えられている。

殺害を実行したのは日本人エリートだった
明成皇后殺害事件の行動隊は、当時の日本の知性を代表する人物らが主であった。中にはアメリカのハーバード大学 出身やフランス語または英語が堪能な人もいた。ロシア報告書の中の高宗の証言書には、殺害犯はスーツやきものを着ていた 日本人であったとしながら、その名前までも明らかにしている。結局国際世論の日本に対する批判、そして犯罪者の 処罰要求により、日本政府は犯人に指名された48人の容疑者を日本に送還した。しかし日本の裁判所(広島)では 証拠不十分と判定され、全員釈放となった。その後、明成皇后殺害藩の主謀者であつた当時の駐韓日本公使三浦梧楼などは、 政治的要職に抜擢され、社会的名声を得たという。日本政府は、最初から殺害犯を処罰する意図がなかったとも思える殺害犯 に対する待遇に、明成皇后殺害事件は日本政府と民間との合作であったと思われる。

明成皇后が狙われた理由
日清戦争で勝利した日本が、清と下関条約を結び遼東半島を占有すると、当時1891年から5500マイルの 大陸横断シベリア鉄道を着工中でいたロシアの南下政策は、蹉跌をきたすことになった。ロシアは自国防衛の立場から 、フランスとドイツを引き入れて、日本に遼東半島の日本軍撤収と朝鮮の自主独立を名目に干渉を始める。 明成皇后は当時強国として浮上したロシアは、朝鮮侵略意思がないと判断、綏遠(遠交)政策 の一環としてロシアを引き入れて日本勢力を排除していたため、日本にとって明成皇后は日本の朝鮮侵略に邪魔になる 存在だった。ロシアの力を借りて日本を牽制しようとしていた明成皇后、それが日本が明成皇后を殺害した理由であったと 考えられる。

悲劇の明成皇后が日本によって殺害されてから100年が過ぎたが、事件は未解決のままになっている。 何故なら明成皇后殺害事件には容疑者がいるだけで、今日まで犯罪者に対する処罰も究明もなかったからである。 今からでも歴史の真実を明らかにしなければならないと強く思うのである。