十四世紀(高麗末)、韓(朝鮮)半島における日本の精鋭部隊

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1352年3月、高麗の首都開京は非常事態に落ちていた。それは朝鮮半島に食料などを求めて入ってきた 多くの日本人によるものだった。しかしこの時期の日本人らは、一般的に倭寇と呼ばれるゲリラ式海賊集団とはその 様子が違っていたという。当時日本南北朝時代の長い戦乱に衰え、朝鮮半島に入って軍需物資の略奪をしていた、 ただの倭寇とは呼べない彼らの本姿を、歴史書物などを通じて詳しく探ってみたいと思う。

日本軍将帥の完璧な武装
東京大学の史料編纂所に所蔵されている「倭寇図巻」には、16世紀中国明に出没していた倭寇の様子が詳しく描かれている。 しかしその書の通り放火や略奪をしていて服装などは乱れていた当時の倭寇と、「高麗史」に記録されている14世紀の倭寇 はその姿が非常に違う。「高麗史」には14世紀の日本軍将帥の様子が、頭には兜と銅面具、そして体全体は 堅甲で武装していたと説明されている。つまり、馬に乗り護衛兵を率いていた完全武装のこの日本軍らはそれまでの海賊の姿ではなかったのである。 このように倭寇の一部は日本の精鋭部隊とほぼ一致する完璧な武装をしていたが、それでは当時の倭寇と日本精鋭部隊とは、どういう 関係があったのだろうか。

日本軍の戦闘能力と規模
日本の航海術と船舶技術は、8世紀以降著しく発展し、当時日本は貿易または略奪のため近くは高麗、遠くは中国(明)まで 遠征していた。また、当時「高麗史」列伝よると、14世紀に日本船500隻が侵入してきたとしているが、 これは日本の南北朝時代のことで彼らは内乱中であった。この時使われた遣明船は長さ15−20m位の貿易船で、 13−14名ほど乗れたという。単純に船一隻に10名が乗ったと仮定しても、500隻の船には日本人5000人も 乗っていたこととなる。さらにこの時は騎兵の数も多く学者によっては当時の兵力を1万人近くと推定していて、 彼らには立派な機動力に、兵と騎兵の共同体制が目立っていたという。韓国のような山岳の多い地形での 騎兵共同戦は、彼らの訓練水準をあらわすと共に高度の訓練を受けた日本の精鋭部隊と密接な関連があることも示している。 従ってこの14世紀の高麗侵略を一般的倭寇の侵入と断定するのは難しい。

日本軍の目的
「高麗史」は1350年2月、智傭船半島の南海岸に日本軍が初めて侵入してきたと記録している。 ここから日本軍侵入は頻繁になっていくが、彼らの侵入目的は、経済的価値のある米や賊貨(当時日本帰属に 人気があった仏教文化賊等)そして人であった。この時日本につれて行かれた高麗人の数は3万余名に至り、 多くの人が奴隷または高麗軍との戦闘に日本軍として動員されていたという。またその時の様子を語るかのように、 対馬には観音寺の高麗仏像など、当時高麗から持って行かれた文化賊が今も多く残っている。このような日本の侵略 がしきりにあったため、当時高麗が受けた被害は大変大きいものであった。

侵略の時代的背景
14世紀は日本歴史上最大の混乱期であった。この時代のことを日本の歴史専門家たちは、"南北朝争乱期"と呼ぶという。 東京大学の渡辺昭夫教授は、当時長い戦乱で不足となった軍量米などの食料を確保するに限界を感じた兵士らは、 近い高麗に頻繁に物資を求めて行ったので、高麗の水路と地理に詳しくなっていたと当時の状況を説明する。 そういった背景が、日本本島の精鋭部隊であった小弐頼尚の勢力と、その揮下の対馬勢力を高麗に侵入させ大々的 侵略が行われたのである。
このように高麗末の朝鮮半島に侵入した日本軍は、倭寇と呼ばれる単純海賊集団ではなく、南北朝内乱という混乱期を 経ていた状況の中で、正規戦のための精鋭部隊が軍需物資確保のために、直接略奪に参加したものと見られる。

精鋭部隊が及ぼした影響
高麗王朝は当時侵略してきた日本の精鋭部隊を根絶するため、外交的にも軍事的にもたくさんの努力を注いだ。 その結果、火砲の開発と地方軍体制の整備という成果を得た。頻繁であった侵入が逆に高麗の国力を強化さ せるきっかけとなったのである。さらに具体的な成果は朝鮮王朝につながっていった。 朝鮮王朝を建国した武将李成桂は、日本精鋭部隊討伐の過程を通じて民心と権力を両方手に入れ、 その力を基に衰退していく高麗王朝を滅ぼし、新しい王朝朝鮮を建国したのである。高麗から朝鮮への歴史の激動期に、 朝鮮半島に侵入した日本精鋭部隊は、その流れを加速化した触媒であったのである。