壬辰倭乱の外交秘史−四溟堂(松雲大師)はなぜ、日本に行ったのか

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壬辰倭乱(文禄の役)当時、朝鮮半島を侵略してきた日本の将帥加藤清正を祀っている熊本県の肥後本妙寺で、 同時期朝鮮の僧侶として義兵活動をしていた四溟堂の親筆遺墨が発見された。四溟堂は西山大師(1520-1602、 壬辰倭乱当時僧兵将として活躍)の弟子となり、さまざまな道術と神通力を持って、率いる義兵とともに日本軍を一気に 打ち破ったことが有名である。このような四溟堂は、当時加藤清正とはどういう関係を結び、現在まで彼の遺墨が 本妙寺に大事に保管されているのは何を意味しているのだろうか。

四溟堂の遺跡と伝説
四溟堂は1610年67歳で入寂した。しかし四溟堂の記録と伝説は「壬辰録」などを通じて庶民の好奇心を充足させ、 民衆の英雄として形象化された。

これは壬辰倭乱当時日本軍の侵略で、国土が蹂躙されたことに対しての民衆の劣敗感 が、精神的に補償されたとも言えることであろう。 そして今でも彼が生きているかのような不思議な現象が、あちらこちらで 起きている。韓国南部の密陽にも、その現象で有名な一名四溟堂碑とも呼ばれる表忠碑があるが、この碑は1742年にたてられた以降 、国家的危機を予見、そのたびに汗をかいていると言われている。実際、東学民乱(1894)の前も韓国戦争(1950)の前も 表忠碑は汗をかいていたという。これについて現代科学ではその原因を、表忠碑に使われた石の成分によるものと説明しているが、 しかし村の人々は今でも国に大変なことが起きる直前には、必ず表忠碑が汗をかくと信じており、密陽警察署ではこの表忠碑 の出汗のたびに、丈夫に報告するようになっている。他には許均(1569-1618、改革政治思想家、文学家、「洪吉童伝」の著者として有名) が四溟堂の行跡を刻んだことで知られる石蔵碑(韓国南部陝川の海印寺所蔵)が、太平洋戦争前、日本の敗亡を予言し、 泣いていると噂され、1943年当時の陝川の日本人警察署長が石蔵碑に向かって、 銃を発砲した跡が残っている。

日本と四溟堂
四溟堂の詩文を集めた四溟集には、四溟堂が日本の京都に滞在していたと思われる詩が収録されている。 詩の背景になっているのは、1436年京都に建てられた本法寺という古刹で、彼がその寺にいたのは1604年、 つまり壬辰倭乱が終わって6年が経ったころのことであった。また加藤清正の居城としても知られる九州の熊本には、 加藤清正の遺物展示館があり、その展示館には四溟堂の遺墨が400年間大事に保管されている。これは 壬辰倭乱当時、加藤清正と彼の師匠である従軍僧日進の行跡を証明する手がかりにもなるものである。

西生浦倭城
一万余名以上が駐屯できるほどの規模をもっていた西生浦倭城(韓国南部蔚山に位置)は、 壬辰倭乱当時、加藤清正が築いたものである。四溟堂は1594年ここで加藤清正と会い、 戦争を終えるための会談を行う。そこで彼は当時朝鮮の反対にも関わらず、極秘で行われていた日明講和交渉の 内容を探問した。当時戦争を早く終わらせようとしていた小西行長と明の沈惟敬は、豊臣秀吉の講和条件を歪曲、 極秘で朝鮮分割を条件に講和交渉をしていた。これを探り出した四溟堂は、小西行長と忠誠競争関係でありながら 日明講和で主導権を失った加藤清正を刺激し、敵陣の分裂を通じて、小西行長と沈惟敬の講和交渉の決裂に成功した。 四溟堂と加藤清正の西生浦会談が行われなかったとしたら、当時韓半島の運命は大きく変わっていたかも知れない。 こういった面から四溟堂と加藤清正の外交談判が、壬辰倭乱最高の救国的外交成果と言える。

四溟堂の行跡
四溟堂は1544年韓国南部の密陽の士大夫(地方官僚階級)任氏家門で生まれ、幼い頃から 仏教に興味を持ち、後には当代最高の僧侶西山大師の弟子となった。彼は壬辰倭乱当時、 僧兵を起こした西山大師の意に従い従軍を決心、壬辰倭乱の版図を変えたともいわれる 平壌城先頭に参戦した。その時の四溟堂は、僧侶というより武将として活躍しており、その様子は 現在残っている彼の影像からもうかがえる。結局朝鮮を廃墟にした7年間の戦争は、豊臣秀吉の 死と共に終わり。その後日本は徳川家康の時代となった。このような事情をよく知らない朝鮮政府は、 四溟堂を対馬に派遣、日本の情勢を把握させた。

徳川家康との会談
1604年9月、日本の再侵略の意志を探るため、対馬に派遣された四溟堂は、日本国内の事情をより確実に調べるため、 当時徳川家康が居住していた京都の伏見城に向かった。そこで彼は日本の新しい統治者となった徳川家康と、 1604年12月末から翌年1月初め頃まで伏見城で会談を行ったという。
当時政権を掌握した徳川家康は政権の安定性の確保のため、朝鮮との国交回復を急いでいた。しかし四溟堂は 戦争処理として、日本が戦争を起こしたのは過ちであるということを認める国書を朝鮮側に送ることを要求、 その責任を認めさせることに成功した。また捕虜送還問題までも解決し、当時朝鮮側の記録によると四溟堂が捕虜 3千名を連れて帰って来たとしている。こういった活躍は12回に渡る朝鮮通信使(1607-1811)交流の基盤を築き上げることになった。 西生浦会談で認められた四溟堂の外交交渉力は、徳川家康との会談でもその実力を発揮したのである。

今日まで続く韓日の歴史的関係に、過去卓越した四溟堂の外交能力は、大きな教訓を与えている。国のために 自分を犠牲にし、敵陣にも迷うことなく乗り込んでいった僧侶四溟堂。壬辰倭乱という絶体絶命の危機の中で、外交談判を 通じて国を救った彼の業績は、現在にいたっても高く評価すべきものとして注目されている。