秀吉の朝鮮侵攻最後の戦闘図

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1592年開戦した豊臣秀吉の朝鮮侵攻戦、言わば"朝鮮出兵"(日本では文禄・慶長の役、韓国では壬辰倭乱・丁酉再乱と表記) は、韓国の歴史上最も熾烈な戦いであり、それに関する記録も数多く公開されてきた。しかし1598年9月から11月19日の 2ヶ月間の慶長の役(丁酉再乱)最後の戦闘が、順天倭城(慶長2年小西行長が築造した日本城で、韓国南西部順天市に位置) を中心に行われていたということについてはそれほど知られていない。しかしその歴史的事実は、順天市がアメリカから入手した 「征倭紀功図券」という絵巻によって、関心を設け始めている。順天倭城を舞台に展開されていた戦争地で、従軍画家により描かれた 一種の記録画ともいえる「征倭紀功図券」の画と、アメリカのコロンビア大学Gary Ledyard教授が日本の雑誌に寄稿した内容を参考に、 400年前の戦闘を改めて振り返ってみたいと思う。

征倭紀功図券
壬辰倭乱を描いた戦闘図のなかで、今まで一番古いとされていた「平壌城戦闘図」は戦争が終わった200年も後に画かれた作品 として有名である。つまり「平壌城戦闘図」は画家が戦闘を目撃してから描いたのではなく、当時の記録を参考に想像力を加え 描いた作品であるということである。しかし最近入手した6.5メートルもある「征倭紀功図券」(日本軍を征服した功労を記録)は 「平壌城戦闘図」とは違って、兵士の動作一つ一つが生き生きと描写され、従軍書家が戦地で状況を見ながら描いた一種の従軍画 であるので、その内容が細密である。しかし残念ながら入手したこの戦闘図は、「征倭紀功図券」原本ではなく、原本を撮影した 11枚の写真であった。現在原本は、中国出身のアメリカ人が所蔵していると言われているだけで、実際どこにあるかはわからないという。 原本が無いため、「征倭紀功図券」を正確に復元させることは難しいが、この巻物は400年前の事件をどんな歴史書物よりも、詳しく伝えている。

順天倭城
一般的に「壬辰征倭図」と知られる「征倭紀功図券」で、一番専門家たちの目を引いたのは、順天倭城だった。 この順天倭城は、壬辰倭乱(文禄の役)当時(1592年)韓国の首都であった漢城(ソウル)に、最初に入城した大将としても 有名な小西行長が、1598年最後の11ヶ月を潜んでいた倭城として知られているという。この他にも韓国の南海岸には、 当時日本軍によって築城された倭城が28城もあったが、これらは一時的な駐屯のためだけではなく、日本軍の本拠地として 長期駐屯しながら、日本に連れて行く韓国人の臨時収容所としても使われていたとみられている。「壬辰征倭図」は、1598年 当時朝鮮海軍の提督であった李舜臣が率いる水軍が、明の陸軍の援助を受け、小西行長の指揮下の3000の兵力を 殲滅するため、小西行長が駐屯していた順天地域で行った戦いの記録であった。最初から最後まで時間の流れに合わせて 描写されていたその記録には、400年前の朝鮮、中国(明)、日本の東アジア三カ国が参戦した国際戦争が細かく表わされている。

露梁海戦
順天の戦いの後、戦闘は一時的小康状態になるが、それから一ヶ月後、戦争は再び大々的に展開された。 しかし1598年、豊臣秀吉の死により、小西行長をはじめとする日本軍は、韓国から撤収しなければならない状況に陥る。 そこで李舜臣は小西行長の救援に向かった島津義弘らの退路を断ち、露梁沖で激戦を繰り広げた。李舜臣はこの戦いで 島津義弘らの軍に勝利するが、撤退する日本軍を追撃中、流れ弾に当たって戦死してしまう。これが文禄・慶長の役最後の 戦闘と伝わってきた露梁海戦であるが、「壬辰征倭図」にはこの様子についても、戦士たちの動きや表情までもが細かく 描写されていて、露梁海戦が激戦であったことをリアルに伝えている。



南海島掃討戦
しかし、文禄・慶長の役最後の戦闘だと知られていた露梁海戦後も、実は引き続き戦争があった。 「壬辰征倭図」には露梁海戦後引き続き展開されている戦いの舞台を、露梁海峡にある南海島にしている。 露梁海戦直後、戦闘は韓国と中国(明)による日本軍掃討戦を南海島で行っていたのである。 韓国と中国(明)の連合軍は、小西行長の婿でもあった宗義智が駐屯していた南海島倭城を中心に、 日本の敗残兵を次々と殲滅させ、7年間の戦いは大詰めの幕を降ろした。