青銅鏡の秘密

BACK][座談会案内][NEXT

1971年、韓国百済の武寧王陵の発掘は、韓日古代史学会を興奮させた事件であった。
それは敗亡し忘れられていた古代王国百済が1400年という時空を越え、復活する瞬間でもあった。 その武寧王陵からは、多くの遺物が出土されたが、発掘30年を迎える今でも武寧王陵については、 さまざまな疑問が残っている。その中の一つが銅鏡である。

銅鏡
古代社会では王は太陽のような存在で、太陽は命の光と思われていた。 その光が普段は王の胸にぶら下がっていたと思われる銅鏡に反射され、その様子が地上に太陽が 降りたかのように思われたことから、銅鏡は王の象徴物となった。
武寧王陵の中からは、このような銅鏡が全部で三つ発見された。しかしその中でも後に「宜子孫獣滞鏡」 と呼ばれるようになった青銅製鏡は、発見当時からその銅鏡が置いてあった位置のことで、歴史専門家 たちの目を引いた。それは発見当時銅鏡の下に、王の後ろ髪を飾る黄金製の飾りが重なって置いてあり、 そのことから銅鏡があった位置が王の顔部分であったことが推測できるからである。

武寧王陵から出土した鏡

残念ながらまだそのことについて詳しい研究報告はないが、銅鏡の位置からして、王を棺に入れるとき、 王の後ろ髪は黄金製飾りで飾り、顔は銅鏡で覆い隠したのではないかと考えられる。

武寧王陵と仁徳天皇陵
宜子孫獣滞鏡は、直径23.45センチで、円形の鏡の中央の突起物を囲む九つの丸い小突起が特徴である。 この銅鏡をさらに詳しく調べてみると、その九つの丸い小突起の間から、「宜」、「子」、「孫」という文字が確認できた。 これは「子孫をあまねく繁盛させろ」との解釈になるという。その他にも白虎、青龍そして 朱雀の模様があったことも明らかになった。しかし興味深いことに、この銅鏡とほぼ同じ形をしている 銅鏡が、すでに日本で出土されていた。それは1872年16代仁徳天皇陵として知られていた古墳が、 大雨により一部土砂崩れし、発見されることになったが、今ではアメリカのボストン藩物管に収蔵されているという。 その青銅鏡をさらに詳しくコンピューター調査で調べてみると、九つの丸い突起物、その間の模様、 そして大きさまでもが、ほぼ一致していた。従って二つの銅鏡は言うまでもなく、両国の密接だった関係を物語っている といえるだろう。

リトル百済、飛鳥
エジプトのピラミッドよりも巨大な世界最大の古墳と言われる仁徳天皇陵は、大阪湾に隣接している。 そしてその側には、仁徳天皇と鷹狩りにも一緒に行っていたとされる百済王族の酒君塚がある。 またその近くには南百済小学校、百済大橋、百済という苗字を持つ人々など、1400年が経った今でも 日本古代王朝の発祥の地である百済の痕跡を感じさせる様々な様子が残っている。
こういった様子は、仁徳天皇の父である応神天皇陵の周辺からも見ることができる。応神天皇は 百済から王仁など多くの博士らを招き、論語、千字文を教えさせていて、当時その周辺には船氏、 飛鳥部(戸)氏などの百済系の勢力が居住していた。
なぜ百済系の氏族らは日本天皇陵の周辺に居住していたのだろうか。これは歴史の謎ともいえるが、 日本人の心のふるさととも言われる飛鳥地域で、当時百済勢力の蘇我馬子のお墓として知られる 石舞台古墳を含めた百済人の古墳群(飛鳥千塚、新沢千塚など)は、そこに大規模な百済人が渡来し、 言わば「新百済」または「リトル百済」を形成、居住していたことを証明する。また「続日本紀」でも当時飛鳥地域の 10人中9人が移住民であると記録しているほど、現在の奈良県にあたる飛鳥地域は、百済の文化が 日本に入る前哨地でもあったと考えられる。

百済王系と日本天皇系
今までの調べによると、銅鏡には当時の時代相と王の統治理念が刻まれているということがわかる。 つまり、武寧王陵での宜子孫獣滞鏡と、仁徳天皇陵での銅鏡が類似であったという事実は、 百済と日本、両国の統治理念が同じであったことを表している。
この両銅鏡にあった四神図は中国でもみられるが、中国の銅鏡では発見できない両国だけの 共有とみられているのが八咫烏である。太陽の中心に住んでいるといわれていたこの伝統的な 烏が、神武天皇の大和征伐に道案内をしたことで有名な三足カラス(three-legged crow)なのだ。 しかし武寧王陵の銅鏡は大変腐食しており、こういった細かい模様が確認できなかったため、 武寧王利用から発掘された他の遺物を通じてその模様を確認してみた結果、宜子孫獣滞鏡の下で発見された 黄金製髪飾にはもちろん、黄金製靴などからも仁徳天皇陵と同様、八咫烏の模様が確認された。
そしてさらに、百済と日本天皇系の関連性を表わす遺跡として、百済系の於美阿志神社がある。 その神社の後ろには9層の石塔がたっているが、その作りは百済の様式そのものであるという。 特に碑石にはここが宣化天皇の宮地であったことを示している。また舒明天皇は 百済川沿いの百済宮に住み、亡くなってからは百済大寺に安置されるなど、つまり百済系の勢力の本拠地に、 日本天皇の宮寺があったということがわかる。それにもう一つ、日本の古代国名である「倭」が最初は 天皇系を称していたが、その後大和地方の豪族を称し、後には百済の渡来人を示す言葉になったことからも、 日本天皇系と百済との関係を推測することができる。