海上王−張保皐

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日本京都にある1000年の歴史を誇る赤山禅院には、日本天台宗の始祖が祀られており、 その中に一人の新羅人も神様として一緒に祀られている。その人物というのが9世紀東アジアに号令しており、 後に海上王または貿易王という修飾語を持つようになった張保皐である。
彼の活躍については日本だけでなく中国、そして韓国の清海鎮(韓半島西南端の小島、現在の莞島)まで 1000年も経った今でも伝えられている。海上王張保皐の威力とはどういうものだったのだろうか。

張保皐
張保皐の名には必ず海上王という修飾語が付いている。その修飾語からもわかるように、彼は中国の唐そして 日本と新羅を中心に国際貿易を主としながら、海上を掌握していた人物である。張保皐を伝える歴史書物を 調べてみると、まず韓国の三国史記には清海鎮の設置から張保皐の死まで、中国の新唐書には彼の名前と中国での活躍ぶりが、 そして日本の続日本後記には民間人としては唯一日本で貿易活動をしていた様子が記録されている。 これだけの記録からも、張保皐は歴史上汎国際的人物であったことがよくわかる。

清海鎮
9世紀、中国の唐と日本、新羅の船が出入りしていて、地理的にも三国の交差点の位置にあった清海鎮に、国際貿易の ための商談と、品物の購入などのやりとりが行える巨大な貿易センターが建てられた。客館から軍事施設まで今でも驚くほどの 大規模な施設を整えていた清海鎮は、当時、人と貿易船でにぎわっていた当代最大の国際貿易港であった。 そしてこのような貿易センターを最初から考案し、実際新羅と日本、中国をつなぐ国際貿易の形として実現させたのが 張保皐であった。彼はその後、新羅からの清海鎮大使という職位を与えられるなど、清海鎮設置後さらに三国間の本格的な 貿易活動を展開した。

張保皐と日本
張保皐は日本国内でも9世紀新羅から来日し、中国と新羅の陶磁器などの中継貿易を始めた最初の人として有名である。 当時は国家間の貿易が難しい時期であったにもかかわらず、日本は張保皐にだけは貿易活動を許可していたという。そして 張保皐に対する信頼が高まることにつれ、日本では張保皐との信用取引つまり、先に代金を払って後から物を 届けてもらったりもしていたと、続日本後記は記録している。日本としては当代最高の品を提供していた張保皐の貿易活動 を禁ずる理由がなかっただろう。福岡鴻濾館(9世紀筑前の外国使臣のための迎賓館)遺物として発掘、展示されている 色鮮やかなイスラム陶磁器も張保皐が扱っていた商品の一つである。

張保皐と高麗青磁
張保皐は当時が厳しい朝貢(公)貿易時代であったにもかかわらず、国家の制約を受けない最初の自由(私)貿易人として、その発想も 奇抜であった。彼は中国唐からの品を新羅と日本に運んで商売するには時間もお金もかかることから、直接その品を製作していれば、 よりやすい値段で品を提供することができると判断、自分の経済人としての徹底的な商人精神を発揮し、当時唐の独占生産品として 東アジアで人気が高かった中国越州窯の陶磁器(太陽コロナに似た丸い糸切りが特徴)の、製造技術を現地から学び、唐で生産していた ものと同じような陶磁器を作り始めた。そして後には唐への逆輸出も実現させたのである。このような技術は、今日韓国が誇りとする 文化遺産である高麗青磁を誕生させた直接的土台となった。

張保皐と円仁
9世紀の張保皐の貿易活動を記録している本が、日本京都の国立博物館に保管されている。それは日本天台宗の始祖とされる僧円仁 が、唐を旅したときに書いた日記「入唐求法巡礼行記」のことである。その円仁が唐を旅した時期は、張保皐の活動時期に重なるが、 これはつまり、この本が張保皐当代の記録になるということを意味する。またその内容をみても円仁が巡礼途中目撃した、 唐の山東省新羅坊(当時の新羅人集中居住地)と張保皐船団の関連記録が全体の20%にも達するという。 その記録から、円仁が日本を離れ4年目だったある日、日本からの送金を円仁に届けたのも張保皐船団であったことがわかった。 このように円仁は当時現代のような組織的活動をしていた張保皐船団に様々な助けを受けながら、無事に9年間に及ぶ唐の旅を終え帰国した。 「入唐求法巡礼行記」に書かれている張保皐船団の様子を現代的言い方にすると、輸送そして人力と情報に金融まで掌握していた、 一種の総合商事に近いともいえるだろう。

東アジアの架け橋
三国史記では、張保皐のことを海島人または側微と表現している。これは身分の低い島人という意味で、朝鮮半島の西南海岸の島で 生まれた張保皐が身分差別を受けていたことがわかる。このような差別に耐えられなかった張保皐は、中国唐に渡り、 優れた武芸ですぐにその名が知られ、当時唐の有名な詩人杜牧も、自分の詩の中で張保皐のことを褒めたたえるくらいになった。 40歳になったころには、在唐新羅人を組織化し、一つの大きな貿易船団を作り上げた。そのネットワークは唐だけではなく、 日本でも構築され、9世紀東アジア三国に散らばっていた新羅人たちを一つにすることを可能にした。このネットワークをもとに自由な 国際貿易を実現しながら、中国に止まらず新羅そして日本にまでシルクロードをつなげた張保皐の貿易戦略は、時代に先立った挑戦であり、 新羅、中国、日本を繋げた東アジア3ヶ国の架け橋としての役割の成功であった。