朝鮮時代のジャパンタウン

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現在日本にはたくさんの韓国人が住んでおり、その中でも大阪地域には20万人ともいわれる在日韓国人 が生活や商売のため根を下ろして暮らしている。これには歴史的及び経済的様々な出来事が拝啓となっているが、 今から約550年前には大阪の在日韓国人のような日本人の姿が、朝鮮の南部で見られていたという。
それでは彼ら(主に朝鮮南部に隣接している、対馬に住んでいた日本人)はどのようにして朝鮮に移り、 生活することになったのだろうか。その当時の朝鮮南部と、日本の対馬との歴史的関係を探ることによって、その答えがみえてきた。

対馬の人が朝鮮に渡った経緯
対馬の土地の97%が山地であったことにより、ろくに農業も出来なかった対馬人の一部は、地理的にも近かった 今でいう釜山方面(釜山から対馬まで53キロ、対馬から九州まで124キロ)に生きるための食料を求めて、 1223年から約400回もの不法侵略を行った。
これに対し1419年朝鮮国王(世宗)は、対馬に軍を送り征伐してしまう。しかし朝鮮は、 平和的関係を求める多くの対馬の人々の意思を受け入れ、貿易という形を通じて新しい関係を築き上げる。 これがきっかけとなり、当時朝鮮の南海岸にあって三つの浦口(貿易港)、つまり三浦(サンポ)での対馬の人々の居住が、 認められることになる。
その後三浦では、貿易港として対馬からの往来が盛んになるが、その三浦を示す地域というのは、 下の地図に表記した朝鮮南部の斉浦、釜山浦、塩浦のことであった。



三浦にいた日本人の生活
当時の日本人の生活は、鎮海市立博物館に展示されている村の模型からも、覗くことができる。 その模型を見てみると、日本人居酒屋や日本独特のやわらかい豆腐を作っていた豆腐屋、そして日本人の生活には欠かせない 畳屋などが、朝鮮の一般的な町などとは少々異なる当時の三浦の異国的な雰囲気を表している。また、申叔舟(シンシュクジュ) (当時の領議政:朝鮮時代の最高官職)が書いた海東諸国記からは、三浦で様々な名称で呼ばれていた日本人の様子がよく分かる。 その呼び方は次のようである。

恒居倭人:三浦地域に定着していた倭人
使送倭人:日本の公式使臣
受職倭人:朝鮮から職位を授かった倭人
興利倭人:純粋に貿易だけを行った倭人
向化倭人:帰化した倭人

このような形で、三浦に定着していた日本人のことを、通称三浦倭人と呼んでいたが、 彼らは三浦での定着のため、積極的な貿易を行い、それに備えて朝鮮語を習っていたという。 そしてそういったことに関する展示品や資料などは、対馬歴史民族資料館に多く残っている。

貿易関係
三浦が対馬から輸入していた代表的なものは、銅である。これは開国初期、火薬武器の開発に力を注いでいた朝鮮が、 その原料を三浦を通じた対外貿易で賄っていたという証拠である。また朝鮮からは、繭糸や麻などが輸出されており、 15世紀後半には木綿の輸出が大幅増加するなど、三浦を舞台としてお互い必要な物のやりとりを仲良く行っていたという。
1443年には、三浦の貿易水準を決めるために創った癸亥約条を通じ、対馬から三浦地域に入る各船の数を50隻と 定めるが、その数は序所に増え約400隻もの船が出入りするようになり、朝鮮南部の三浦は益々東アジアの代表的な貿易港となる。

三浦倭乱
三浦の中でも斉浦にあった倭人村の家屋敷は、1426年には30戸(約200名)に過ぎなかったのが、 1466年には300戸、1494年には347戸と貿易の活発化に伴い増えていった。
こういった倭人人口(三浦全体の日本人居住者は、最大約1万人と推算)の増加と、倭人の土地占有などによる 国家経済的脅威が、徐々に朝鮮政府の中で問題化され、その結果16世紀に国王(中宗)は改革政策を行い、 問題の三浦の抑制を行い始める。この抑制策は、多くの恒居倭人の経済活動を抑圧することとなり、 1510年4月4日には三浦に居城していた日本人による大騒動がおきる(後に韓国歴史ではこの事件を三浦 倭乱と記述。)。しかし朝鮮はこの倭乱を鎮圧し、結局は三浦閉鎖にいたる。
こうして朝鮮半島初の三つのジャパンタウンであった三浦は、その短かった歴史を終えることとなった。 約100年間続いたジャパンタウン三浦は三浦倭乱でその姿を消すことになるが、その三浦が間違いなく 朝鮮時代前半の外交通商の窓口であり、異国的趣きとともに未知の世界に出会える可能性のある重要な場所であった ことに違いはないであろう。