武寧王陵

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1971年、1400余年眠っていた、百済の25代目武寧王の王陵が原型のまま発掘された。同 王陵は、武寧王とその王妃の墓として、三国時代の古墳の中でも、唯一その陵の主人がわかったものである。
陵の内部には素晴らしい細工技術を誇る遺物が、108種3000点も所蔵されており、百済の芸術世界を見ることが出来た。 しかし、古代史に衝撃を与えたこの武寧王陵は、発掘30年が経った今でも、次のようないくつかの疑問点 を持っている。

@武寧王はなぜ日本で生まれたのか。
日本の九州北端にある加唐島(かからしま)には、武寧王の誕生秘話に関する祭壇や、風に乗ってきた という言い伝えがある。

武寧王陵

実際百済の21代目蓋鹵(ケロ)王の弟に当たる昆支(コンジ)は、外国の使臣として国を出ようとして いた時、蓋鹵王に王妃を妻としてもらいたいと申し出、その通りになった昆支は、蓋鹵王の子を みごもった王妃を、妻に迎え入れ、一緒に福岡に向かったという。
その途中、加唐島という小さな島で子供を生み、その名前を島で生まれたことから斯麻と名づけた。 これが武寧王の誕生秘話であり、この内容は日本書記にも綴られている。

A昆支はなぜ日本に行ったのか。
日本の大阪の飛鳥地域には、今でも百済人の痕跡が多く残っているが、そのひとつとして挙げられるのが、 飛鳥戸神社である。そこの神社の歴史を書いた標紙には、飛鳥のご先祖を昆支と記しており、その村では今でも、 毎年祭壇のお祭りが盛大に行われているという。
このように昆支の一族が、日本でその生活を構築していたことから、昆支を日本の使臣として行かせていたのではないか と考えられる。

B遺体は3年間どこにあったのか。
武寧王は西紀523年5月に亡くなっているが、王陵に安置されたのは、それから27ヶ月も後のことである。 また王妃も西紀526年12月に亡くなって、同王陵に入ってのは、それから28ヶ月も後のことであった。 それでも武寧王もその王妃も、亡くなって3年間、どこに安置されていたのだろうか。
1996年、公州と扶余をつないでいた橋の工事が、急に中断されたことがあった。その通過地点であった艇止山(ジョンジサン) という山で、大型遺跡が発見されたのである。しかしその遺跡は、大型貯蔵施設や建物地の跡で、武寧王妃の墓誌に記されていた、 王と王妃の陵のTと一致していた。これにより武寧王と王妃は亡くなってから、艇止山で3年間安置されていたことが、 わかったのである。そしてその3年間という時間は、まず身分の高い遺体に対する礼遇であり、王妃の築造と中に入れる 副葬品の準備期間として、使われたのではないかと思われている。

C棺は日本から来たのか。
武寧王陵の棺は1400年以上を耐えた唯一の木棺である。
その木棺のかけらを採取し研究した結果、その細胞の特徴から、こうやまきであることがわかった。 こうやまきとは、その種類が世界でも一種しかない、日本南部の特産物であるという。
そのこうやまきが百済まで棺で来たのか、木棺材として来たのかまではわからない。 しかし日本でも支配階層だけがしようしていた棺材が、百済の武寧王陵で発見されたということは、その木棺は飛鳥 に先進文化を伝えた武寧王に対する、当時日本の恩返しのかたちを意味するに違いないと考えられている。

D王陵はなぜ摶築墳で造ったのか。
王陵の中はきれいな曲線のアーチ型をしていて、蓮の花が刻まれている壁面はれんがを横四段、縦一段にして積み上げている。 このアーチ型は、設計図による科学的なものであり、朝鮮半島では、めったに見られなかった形であった。しかしこの形とほぼ一致 する陵の形が、中国梁の首都だった、南京にもあったことがわかった。これは当時、先進文化を積極的に受け入れていた、 百済の武寧王と中国の梁との緊密な関係を現している歴史的証拠の一つであると言える。

武寧王陵の発掘で、数多い百済の歴史の疑問が解けた。
外部の文化を積極的に受け入れ、その形の変形が王陵として、残っていた百済の文化は、東アジアの文化を含む、 国際的なものであったことがわかる。
そして武寧王陵そのものは、中国産陶磁器、日本産棺、6世紀東アジアのすべての文物が、集大成された独特な雰囲気の王陵であり、 国際化を通じての、百済の富国強兵策の成功を意味する、素晴らしい記念物であるにちがいない。