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東洋平和論の作成を望む

廣尾順三


私の住む伊勢市の近郊に、以前「国際秘宝館」なるものが存在していた。
それはいささかいかがわしいものであったが、その「国際秘宝」という言葉から私はふたつのものを思い浮かべた。
ひとつは王国維の弁髪であり、もうひとつは安重根の左手の薬指である。
王国維の遺書の冒頭部分は、司馬遷の「任少卿に報ずる書」の鬱悒の気を感じせしめ、その弁髪は青木正児氏によると 清末民国初を漢人として生きてきた(王国維)「先生の信念と節義と幽憤とが、いわし組に堅く組まれてあったのである」。 また、安重根の法廷での発言には、文天祥の「正気の歌」の響きがあり、その断指には韓民族の独立への意志がこめられている。 このふたつは東洋の秘宝と呼ぶにまさにふさわしい。私は、あるとき知人から冗談で「小説を書いたらどうだ、それでメシが食えるぞ」と 言われたことがあった。
私はテレながら、強がりで「オレは小説など書く気はない。大説を書きたい。できれば安重根が旅順監獄で書こうとして(死刑が早まり) 書けなかった東洋平和論を書いてみたい」と言った。
これは荒唐無稽な妄想であるが、どこか私の意識の底にあったことである。
悲しいかな私は韓国語を知らない。また安重根が、彼の生きた時代にどのような思想を抱き行動してきたのか詳しく調査することは出来ない。

そこで次のことを提案したい。まず、有識者による東洋平和論起草委員会をつくり、安重根の発言、行動等を詳しく調査し、 現代ではなく、彼の生きた時代の視点で、彼が主張したであろう東洋平和論を彼に代わって作成し、それを中国語と日本語に訳する。 それ以外の言語への翻訳は委員会の直接の業務ではなく認定業務とする。
この委員会を運営するには基金を創設し韓国のみならず東アジア全域で募金を行う。期日は2009年10月26日までに 完成し、2010年3月26日に式典を行う。


死刑直前の1910年3月8日、
弟定根・恭根と洪神父が安重根義士と面会

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