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歴史座談会と私

中村旅人


駐名古屋大韓民国総領事館総領事柳洲烈氏の素晴らしい日本語を耳にしたのは、2002年11月に行われた勧告の慶州仏国寺と 三河岡崎大樹寺の親善相互訪問のレセプションでのことでした。日本語の後、韓国語でも挨拶をされ、外交官としての恰好良さと 新しいエネルギーを感じました。そして大樹寺における仏国寺訪問団の皆様のことを、私は「平成の朝鮮通信使」と勝手に名付け、 プログラムを作らせて頂きました。まず、将積祝子先生にはお茶の接待、時は延享五年(1748年)6月22日、岡崎宿で 実際に饗応された菓子(うずら焼)を再現して、本堂将軍の間にておもてなしをして頂きました。

昼食には、私の蕎麦打ちと赤米のお餅と一番評判が良かったのが赤米と蕎麦のアイスクリームでした。夜は貫井正之先生の講演会 「松雲大師と徳川家康」で、事前に韓国語に訳した印刷物をお渡ししてありましたが、途中で退席されましたのは少々残念でした。当方 の準備不足もあって難しさも痛感いたしました。こうした経緯があって座談会にお誘い頂くようになりました。

それからというもの、毎月出席するのが楽しくなり、新しい歴史の発見ばかりです。2002年韓日共同開催のサッカーワールドカップ が近付いてきた三月に、四月のテーマは八咫烏(やたがらす)とのことで、柳氏は「八咫烏は朝鮮半島から日本に伝わったのです。」 と誇らしげに自信を持って仰いました。以前、小生が読んだ資料には、中国大陸からと出ておりましたので、これはひとつ日本サッカー協会 の威信に掛けても真実を明らかにしなくてはならないと思い早速、熊野へ。このあたりが旅人のフットワークの良さであります。

丁度五月には、馬頭琴のリポーさんと熊野古道を歩き、コンサートをして私の蕎麦を食すという贅沢な企画が控えておりましたので 早いのも当たり前でした。まずは熊野市の三石学先生に書籍を数々ご紹介頂き、早速新宮市へ。虫が知らせたのか、いきなり速玉大社 へまいりますと、そこには元サッカー協会会長の長沼氏そして釜本氏が参拝中でした。雨の中、小生は日本代表のウィンドブレーカーを目立つように 着て、彼らが振り返るのを待っていました。

握手から抱擁へ、四年前のフランス大会でエクスレバンにて小生が打った蕎麦を会長自らドンブリを持ってふるまわれ、地元紙 では「一国の協会会長が日本の職人の打った蕎麦で外国人に日本の食文化を一生懸命に伝える姿があった」と報道されたのですから 二人は他人ではなかったのです。応接室に通されてから、長沼氏は四年前のフランスでの出来事を、宮司・市長・議長を始めとする 皆様に話され、2002年の開催に向けて丁度よい参拝になりました。宮司から突然「中村さんはどうしてここに来られたのですか? 偶然ですか?」と尋ねられたので、私は歴史座談会の話をし、「総領事の鼻を明かせようと思って熊野へ資料を集めにまいりました」 と答えると皆様は関心され、市長が「それは良いところへ。ここに八咫烏の第一人者がいます。」と山本殖生先生をご紹介してくださいました。
すかさず宮司は「いやー、中村さんは不思議なお人ですね。これも八咫烏のお導きでしょう。」と本当に今、自分がここに居ることさえ 分からなくなってきそうな気持ちでした。午後には本宮大社へ参拝、山本先生は、「これしかありませんが」と先生のまとめられた 熊野信仰と八咫烏の資料をお持ちくださいました。その後、愛知県東栄町の花まつりも実は熊野信仰ですので色々アドバイスを頂いて 私なりに太陽信仰の輪を広げております。五月には、本宮大社にてワールドカップの成功を祈願して蕎麦打ち奉納となり、益々 八咫烏は元気に飛び巡ることになりました。

柳氏はある時、八事興正寺に朝鮮通信使の韓使来聘図があることを知っていらっしゃいました。幸い私共の墓が興正寺にありお願い いたしましたら、「総領事ではお断りできないでしょう」と内々に見せて下さいました。奥様も感激され良い一日でした。ワールドカップは 大成功に終わり、韓国はベスト四で真っ赤なTシャツで染まったテレビの画面は少々羨ましくも思えました。時々、私の蕎麦屋へ 南山大学の安田文吉教授を招いて夢講座を開き、柳氏ご夫妻もお招きして楽しく勉強をしております。

個と個が信頼し認め合い、それが続けば友にも兄弟にもなれることを総領事は身を以って示されています。我々は、この様な時間を 共有し、本音で意思を伝える大切な仲間を増やして正しい歴史観を雨森芳洲先生曰く「誠意と信義の交際」「交際提醒」を大切に 鞄に入れ高月町の芳洲庵を訪ね近江八幡にて饗応膳を囲み葱苳酒でいつの日か乾杯したいものです。

すみません、大切なことを忘れておりました。
八咫烏は朝鮮半島からも中国大陸からも沢山飛んできて、とうとう日本サッカー 協会のシンボルにもなってしまいました。
平安時代天皇の即位の着物の柄は八咫烏であったことも判明いたしました。


江戸期に描かれた雨森芳洲像
(高月・芳洲文庫蔵)

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