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隣の国が近くなった

近森泰彦


わらび座の岡崎さんに誘われて「青銅鏡の秘密」(2003年4月)から座談会に出席しています。 翌月、同じわらび座で企画・営業の責任者をされている是永さんからお話をうかがう機会がありました。 秀吉の朝鮮侵略に関心をもっていて卒業論文に「慶念 朝鮮日日記の研究」という力作をものにされた方です。
是永さんに刺激されて早速「朝鮮日日記を読む」を購入しました。一冊7500円也、あまり読まれていないのかな?
同郷といってはおこがましいのですが26歳で殺された土佐の詩人、槇村浩が1932年3月1日満州国建国記念日に詠った 「間島パルチザンの歌」の一節から、

"おお3月1日!
民族の血潮が胸をうつおれたちの
どのひとりが
無限の憎悪を一瞬にたたきつけた
おれたちのどのひとりが
1919年3月1日を忘れようぞ!
その日「大韓独立万才!」の声は
全土をゆるがし
踏み躙られた日章旗に代えて
母国の旗は家々の戸゛とに翻った"


1920年10月 青山里の甲山戦闘で抗日独立軍により敗退する日本軍

間島は島ではなくて延辺朝鮮族自治区であることが地図を見てわかりました。
商社マンの友人に案内してもらってソウルの町を歩きまわっていた時、南山に建つ安重根の銅像に出会いました。今も? 日本では国賊、韓国では英雄、光と影ほどに評価が異なる人。間島パルチザンの詩のように燃焼しつくした人だと思いました。
このような断片的な韓国像しか持っていませんでしたが「座談会」というネーミングは親近感がありました。
初日、瀋陽日本領事館駆け込み事件がTVで繰り返し放映された直後だったので硬くなって領事館に向かいました。
柳総領事はいつも笑顔の人。「プルプリ(草の根)の精神で漢方薬の様にジワジワと共通認識が深まれば」(2002年4月26日 読売新聞) と主宰者の思いを語っておられます。
今年の春、貫井先生の企画で秀吉の侵略のあとをたどる韓国歴史探訪のたびに加えていただきました。圧巻はなんといっても西生浦城址。 先生の解説は色彩感があって往時の人々のうごめきが浮かび上がってくるほどでした。
400年も経って幾多の戦火にさらされたというのに石垣は凛とした美しい線を描いていたのが印象的でした。
廃れてゆく民謡手おどりをほりおこしている「かすりの会」が本場の黒石市(青森)から名人を招いて名古屋の港湾会館ホールを満席 にして公演をおこないました。
事務局長の原田さんによれば「もとをたどれば五木の子守唄が千石船に運ばれて青森に根付いたもの」だそうです。 貫井先生の旅行ガイドにアリランの唄が紹介されています。

はじめに密陽アリラン
"私が死んだら誰がないてくれるか"
裏山の松の木で蝉が鳴く"
つぎに五木の子守唄
おどんが打死んちゅうて
誰が泣ゃあてくりゅうきぁ
裏ん松山蝉が鳴く"

今、日本はアメリカに命令された戦争を仕掛ける国に変貌を遂げ始めています。だから民衆レベルの草の根ネットワークを広げる ことが本当に大事になってきたと考えています。

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