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壬辰倭乱を考える

文責 市川雄二


「東アジアの中の日本」という視点から日本の近世を考察する、というテーマに関心を持っている。
日本の近世を織田信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄11年(1568年)から大政奉還の慶応3年(1867年)までとしてみると その期間は約300年である。その間、江戸時代の政治・経済の安定の基盤は近世初期、安土桃山時代の戦国動乱とその終息までの課程 の中にあった。特に本能寺の変(信長の死)から文禄慶長の役(壬辰丁酉の乱)までの15年間について日本の内政及び対外戦略や国歌意識を 考察し検証することが重要である。
徳川家康がそこから学んだ反面教師の教訓の影響は大きいし、「朝鮮通信使」を主とする政策転換は壬辰倭乱の戦後処理として 日朝友好に寄与した。東アジアでは、旧秩序の力が衰退し、新しい国家の胎動があったのである。
「壬辰倭乱」がもたらした戦禍は、朝鮮・日本両国にとって惨劇であり、大きな悲劇を招来せしめた、その後の両国民の歴史観に 大きな影響を与える原因となったことは厳粛な事実であり、それは近代に至っても解消されていない。
ちなみに、【倭】に纏わる悍しい言い回しに倭政【ウェジョン】時代(日本帝国の武断統治=植民地時代)や倭奴【ウェノム】の言は 秀吉の【倭乱】が大いに関わりを持つようだ。

平成15年3月、韓日歴史座談会主催「韓国歴史探訪」の旅に参加させて頂いたのは誠に幸運であった。表忠寺では、松雲大師を偲び、 西生浦城跡では歴史の重さを実感したが、事情を知る程に感動した。
前年(平成14年)に韓国に旅をして、大邱から海印寺、友鹿里へと訪問する機会に恵まれていたからである。
「友鹿寺は大邱近郊にある山里で250余世帯、700人程度の住民が居住している。壬辰乱の際、日本(加藤清正)軍の先鋒将であった 沙也可が朝鮮に帰化、金忠善となり日本軍と戦い、役後定住して以来、今日まで400余年、その後裔らが集姓、村を形成してきた」と 案内書にある。この村で見聞した古老の方々の談話や鹿洞書院の由来など未知のことが多く、一つ一つが新鮮な驚きであった。

沙也可14代末裔 金在徳氏と貫井教授 1988年


「李朝実録」に沙也加(可)の名がある
当時求めた書籍やビデオテープが今手許にあるが、改めて鑑賞してみると地元の人達の真剣なまなざしや熱意が伝わってきて懐かしい。
その後、書店へ行くたびに、関係書籍が目つくようになったが、それまでに読んでいた「秀吉が勝てなかった朝鮮武将」 (貫井正之著)をベースにして資料を収集している。それまでは、朝鮮通信使に関心があり雨森芳州の里(近江)などを訪ねていたのだが・・・。
第17回座談会(平成15年4月)「日本軍と戦った日本軍」は映像、討論会とも大変勉強になった。各回テーマの座談会資料を 高く評価する。KBS編集方針の視点に客観性と説得力があり、納得できるものである。個人的には「歴史探訪」以後の出席であるが、 全般的友好的な雰囲気で楽しかった。通算20回を迎えている会であるが、日韓交流の相互理解に大いに貢献しているというべきである。

領事館のご配慮をはじめ関係する方々の賜であるが、今後も「継続は力なり」を実証し、続けたいものである。
以上、意見として要望を記して、今回の企画に深く敬意と感謝を申し上げます。



文禄慶長の役(壬辰丁酉の再乱)と日韓併合考

星原幸次郎

何時だったか来日した韓国大統領が、「国を亡くし、民を亡くし、言語を亡くし、民族自主の尊厳を亡くした一端の責任は亡国の側にもある」、 との言及がなされましたが、壬辰倭乱たる秀吉の侵略時も朝鮮王朝内では党派・政争に明け暮れ折角の通信使の日本視察を兼ねた朝廷報告は 「侵略有り」と「侵略無し」、との使臣の所属党派で相反する報告となり、つまりは朝鮮の宗廟社稷、三千里錦繍江山は瞬時に蹂躙されてゆく。
日韓併合はどうだったか。王朝内の権力闘争就中、国防と権勢維持を隣国超大国に委ねんとした事大主義と、相変わらずの党派党争は 旧態依然にして半万年になんなんとする悠久民族を植民地武断統治下に陥れ、以後如何ほどの愛国有志が倒れいったか。
そして今、米国を頂点にした西側自由主義陣営の大韓民国と東側(消滅したが)に与していた「北」朝鮮の双方をして、米国に国防を委ねている 様はその内実に於いて今昔の差こそあれ、事大主義の感を禁じ得ない。
奇っ怪なのは不倶戴天・強盛先軍を豪語する北朝鮮が核がらみとは言え米国に安保を求め恥ずかしくも体制保持すら懇請、とは記すも恥ずかしき 事大主義なり。
国歌の安危は正に自国民の【民草】に依拠すべし、とは昨夜の夢の中の託言か。

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