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プヨ幻想

鬼頭健郎


父からの遺言により、私は今、わが扶余族の何代目かの都の地白馬江のほとりの扶余に来ている。 南下した扶余族(南扶余族)の本宗家へ一族郎党が集まる重要な集会に参加するためであった。
明後日、中秋の名月の日から7日間、この町で伝統のクリルタイが開かれる。
それはモンゴル語で「集会」を意味し、南扶余族の部族会議のようなもので、部族の中で、有力な家系計の族譜を持つ 当主クラスの主だったものがすべて参加する議会と考えられる。ここで首長及び三役クラスの選出を初めとして、 当面の部族としての方向性を決定する重要な会議が行われる。中国、朝鮮半島、日本と東アジア極東地域に分布する 扶余族の代表者約60名程がこの扶蘇山城に集結している。
何十年ぶりかの部族会議が行われようとしている。私にとってはじめての扶余であったが、我が体内に流れる血がかすかに記録する 「この血が先祖伝来からの有緑の地である」ことは扶余に一歩足を踏み入れた瞬間から体の全体で感じていた。
トウガラシが干してある道端を渡り行くさわやかな秋風と、百済の古都であったことが偲ばれる落ち着いた町並みは、 今から1,400年程前の遠い過去にここで私が多感な時を過ごした記録をまざまざと蘇らせてくれている。今扶余で出会う人達の 人懐っこい顔が百済の滅亡に近付いている時代に両班としてこの地で若き日々を過ごした自分と何らかの縁を組んだ仲間達に思えてならない。

初めて見る今は公園となっている扶蘇山城を1400年遡る歴史のプリズムの中でみる私の心に何とも言いようのない感慨と共に 懐かしく映るのだ。
ここからAD663年あの百済最後の将軍、階白将軍は精鋭5000の軍兵を率い、数万の唐、羅連合軍が陣をしく黄山方面に向け、 決死の戦いを挑んでいったのであった。
我が扶余族は吉林省、松花江中流域に源を発し、漢の時代に部族として第一次隆盛期を迎える。 今でも吉林から長春を過ぎ、 ハルピンに向かう鉄道の途中に「扶余」という地名を残す。ここが現地の地図上での扶余族本貫の地である。

北扶蘇山城 落花巌の上に建つ百花亭

主力部隊を割って若き精鋭部隊を数次にわたり南下させ、極東の地にある政治的緊張関係をもたらしたのである。扶余族が 南下政策をとったのは、さらに北に居た騎馬民族(匈奴)の圧力によるものであったと考えられる。南下した我が扶余族は、 紀元前後、高句麗を建国。さらにその後4世紀には韓族の馬韓を滅し、百済を建国、さらに南下して伽耶を統率し、勢力を増す。 ここに南扶余族はついに玄界灘を渡海し、倭国に進入、大和政権成立への大きな力となった。


白馬江より落花巌を望む 三千宮女の血涙が流れて

7世紀新羅が半島統一を果たす頃には、東アジア極東地域において我が扶余族は、その輝かしい歴史の任務をほぼ終え、周囲の民族の中に同化し、 歴史の舞台から消え、時代の流れの波の中にのみ込まれていく。そして倭国に於いてこの扶余の血が再び歴史の上に登場して来る時、 彼らは源氏、平氏という地方の大豪族として、さらに力を得て中央政権を左右する一大勢力として生まれ変わってくるのである。
「武家」という新興階級としてその後の日本史に登場してくるのである。
7世紀の初めに百済のプヨより日本に渡った我が先祖が誰であったか?私は知らない。

付記1.文中のクリルタイはモンゴル族の集会を意味する言葉である。古代扶余ではどう言ったのか知らない。アフガニスタンは、 これを「ロヤ・ジルガ」と言って現在も行われ続けている。
付記2.文中「私」は筆者と同一人物ではない。

雑録 扶余族の末裔 尾張名古屋に編輯子秋夢

時は流れ日本国文久年。尾張の国、いとう呉服店「松坂屋」の別家・初代鬼頭幸七は国立第一銀行「伊藤銀行」(後の東海銀行)の創設に 深く関わり、特に藩債返済の功により屋敷地を拝領する。3代目幸七はデパート化に尽力するとともに社名を「松坂屋」と変更する。
昭和7年に定年を迎える3代目幸七はその間、大阪店、銀座店、南大津店、静岡店、などなどの建設と開店に大奮闘したことが その後の松坂屋の発展の基礎となった。
本文投稿者の鬼頭氏が扶余族の末裔なのか、はたまた、松坂屋・別家の鬼頭一門なのか私、編輯子は知らない。

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