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倭人について知り得たこと

澤田天瑞


私は以前から日本の古代史に興味持ち、春日井市主催の東海学の会員として、森浩一先生の指導を受けてきた。 たまたま韓日歴史座談会のお誘いを受け、毎回出席し、KBSのビデオ「歴史スペシャル」を見、貫井先生のコメントや参加の皆さんからの 活発な意見の交換すること2年。韓国古代史を通じて、日本の古代史が次第に明るくなった気がする。
特に、倭人について知り得たことは、以前は日本列島に住む日本人と認識していたが、座談会を通じて調べると、倭人は日本列島に住む 倭人は日本列島に住む倭人だけでなく、朝鮮半島南部のかなり広い地域に居住していたことが判明してきた。
「後漢書」の馬韓については「その北は楽浪と南は倭と接し、辰韓の東にあり」と記している。また弁韓についても、「辰韓の南にあり、 その南また倭と接す」とある。「三国志」も同じく「馬韓は南で倭と接す」とある。さらに「弁辰は十二国のうち、讀盧(どくろ)国 は倭と界を接す」とある。


出典 井上秀雄著 古代朝鮮より

「三国志」の新羅本紀には新羅に進攻してくる倭に関して多くの記録が綴られている。本紀の第九代伐休 尼師今十年(193)六月の条に「倭人大いに飢え、来たりて食を求める者、千余人」とある。
もし、倭人の居住地を日本列島と限定すると、どんな食糧事情が深刻であったとしても、彼らが千人余もの群れを作り船に乗り、 危険な玄界灘を渡ってまで、あえて乞食をしに行ったとは考え難い。大挙して新羅の領内に入って食を求めたことは、彼らが 新羅と陸続きに居住地があったに違いない。
「三国志」魏志の韓の条に「建安中(196〜219)公孫康は屯有県(楽浪郡中央部)以南の荒地を分ちて帯方郡となし、公孫堪、張 敝らを遣わし、遣民を収集し、兵を興して韓・を伐ち、旧民稍出す。この後、倭・韓ついに帯方に属す」とある。これは 朝鮮半島の中部と南部には、倭族に属する辰国が建設されており、それが馬韓と辰韓、弁韓に分立する。それらの三国を馬韓の辰王によって統べ られていたが、東扶余国から帯方郡に亡命していた王子が、四世紀に東晋の支援のもとに馬韓を討ち、馬韓の地に百済を建設したのでは なかろうか。
江上波夫著の「騎馬民族国家」では、四世紀に辰王系の任那の王が、伽羅を作戦基地として、そこに於ける倭人の協力のもとに 筑紫に侵寇し、その筑紫に都した王を日本の建国者である崇神天皇だとしている。そして大和の東遷は、 第二次の建国者を応神天皇とみている。崇神天皇を取り上げたのは、同天皇が御間城入彦(みまきいりひこ)と呼ばれたことであるとし、 そのミマは任那と関係を持ち、任那の王が渡来したという説である。
日本列島に朝鮮半島を経て渡来した倭人は、「後漢書」「三国志」のいずれもが、男子は黥面文身をしていたことを記している。朝鮮半島で 倭人と呼ばれる人たちが文身の習俗を持っていても不思議ではない。
ところが、辰国を形成した人たちが渡来前に文身していなかったのか、渡来後に廃したということは不明で、考証のしようがない。

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