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歴史座談会に参加して

小田章恵


今から4年前の1998年6月、アニョハセヨ・カムサハンミダの二つの言葉だけ用意して、 はじめて韓国へ行きました。友鹿洞に建築された「忠節館」の竣工式に参加したのです。出されたごちそうは、 どれもこれも辛く、おいしく食べることができたのは西瓜だけでした。
それまで韓国のことは何も知らなかった私ですが、いま食卓には韓国料理が並び、冷蔵庫にはキムチが絶えません。こんなにも多くの 人と出会い、そして多くの事を学ぶことができるのは、もしかして私の体の中のどこかに韓国の血が流れているのかもしれないと 近頃しきりに思ったりもしています。もっとも古代から日韓の人の交流は親密でしたので、遡ればどの日本人も同じでしょう。
韓国語を習い始めた私のところへ韓国の友人I・M氏から「歴史のことを何も知らないあなたのために、そして韓国語の勉強のために 」とKBS制作の歴史スペシャルが毎週届きました。字幕がないので、わけもわからず一時間番組を画面だけで勝手に 想像して見ていました。
KBSの歴史スペシャルを勉強している「歴史座談会」になぜもっと早くから参加させていただかなかったかと悔やまれます。 金河永氏の同時通訳に魅せられ、それまでの見ていただけの歴史が、毎回少しずつ知識となって私の体の中にしみこみ、大切な宝 となっていくような気がしています。
30年来、私の父が交流を続けている韓国テグ市友鹿洞の方たちが、昨年和歌山にいらした時のことです。友鹿洞は、 壬辰倭乱の時、韓国に降伏した倭兵日本名「沙也可」の子孫が今も住んでいる村です。「沙也可」は和歌山県の雑賀が故郷では との説が有力です。宗親会・金在錫氏はじめ友鹿洞の村人は、雑賀岬の砂をビニール袋に入れて「ハラボジ!ハラボジ!」と泣いていました。 私はその姿を忘れることが出来ません。
私が3度目に友鹿洞を訪ねた時、名古屋の瀬尾文子女史が訳して下さった、晩年の「沙也可」望郷の詩「南風有感」を読みました。 特訓を受けたので韓国語で読みました。集まった友鹿洞の人たちが泣いていました。
22回歴史座談会「加藤清正の13歳捕虜」勉強会のとき、壬辰倭乱当時13歳で日本に連れてこられた「余大男」の子孫が熊本を訪れ、 先祖の墓参りをして故郷を想い歌を歌った時、子孫たちが涙するビデオを見て、金河永氏の見事な同時通訳から友鹿洞の方たちと 重なり涙が出ました。1993年、ともに14世の薩摩焼陶工「故郷忘じ難く候」の沈寿官氏と沙也可14世金在徳氏の鹿児島 に於ける歴史的会見も感激でした。
多くの人のおかげで、多くのことを学ぶことができる私の毎日は、まだまだ続きそうです。

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