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もう一人の立役者 金河永さん

後藤和晃(元NHKプロデューサー)


韓日歴史座談会の立役者といえば、それはもうこの会のプランナーであり推進役である柳洲烈総領事をおいて他にはいないだろう。 ソウル大で中国語を修めて領事となり、中国の総領事館でも勤務されただけに、東アジアの歴史に驚くほど詳しい人である。 柳洲烈総領事という存在がいなければ韓日歴史座談会もありえなかったことは明白である。その柳総領事の功績に満腔の敬意を払いつつ、 この小文では影の立役者である女性領事館員金河永(キムハヨン Kim ha yong)さんの活躍に拍手を送りたいと思う。
ソウル出身の領事館員、金河永さんは歴史座談会が発足して以来、KBSの歴史スペシャル番組のコメントを日本語に翻訳し、画面に合わせて 同時通訳をしてくれている。彼女の行為を一見、何でもないことと見ている人がいるかも知れない。しかし放送局で働いたことがある私から見ると 、彼女は大変な仕事に挑戦し、みごとにやってのけているように見えるのである。
私を一番驚かせたのは、歴史スペシャルの長尺番組、60分ものを一気に上映し、映像に合わせ日本語のアナウンスを正確に つけてゆく見事さである。アナウンスは目の片隅で映像を意識しつつ、文章を分かり易く読みこなす作業で、よほど慣れないと難しいことだ。 現に各放送局の新人アナウンサーが登場すると、意識が原稿に集中しすぎてコメントが映像とチグハグになる現象をしばしば引き起こしている。 一方、金河永さんは常に冷静に画面にあわせながら正確にコメントを読み上げてゆく。たいしたものである。
そして私が何よりも感心するのは60分もの長時間、息も切らせずアナウンスしつづける姿である。

一般的に見てアナウンサーとしての基礎訓練を受けていない普通の人が原稿を読み続けるのは10分程度が限界ではないだろうか。 ところが彼女は涼しい顔で一時間の一気読みをこなしているようにみえる。
そこである時彼女に「貴女は、どこかでアナウンスの基礎訓練 を受けたことがあるの?」と聞いてみた。答えはノーだった。しかも彼女は生来ノドが弱くカラオケも2曲も歌えば立ち所に声が嗄れてくるのだそうな。 なんとも不思議な話ではないか?ノドの弱い女性が一時間番組の読みをリハーサル、本番あわせて4〜5回を平然と繰り返しているのである。 私は、これまでに出会ったある種の韓国人達の顔を思い浮かべながら、「あぁ、彼女も不可能とも見える目標にぶつかって行き、遮二無二 実現してしまうタイプの韓国人の一人なんだ!」と自分に言い聞かせたものである。

奮闘する名アナウンサー金河永嬢

私がこれまでに出会った韓国人の中には、こうと目標を定めたらものすごいエネルギーでを傾けて、その達成を図る人が幾人もいた。 例えば韓国を代表する漆・螺鈿工芸かで金大中前大統領から"新韓国人"という名誉ある称号と勲章を贈られた全龍福(チョン ヨンボク)さん などはその典型であろう。51歳になる全さんは、今日本の岩手県に住み、斬新な漆・螺鈿工芸作品を創りながら、工芸教室で 漆塗りの実技を日本人に教える日々を送っているが、10年あまり前には日本人工芸家たちの度肝を抜く大仕事をやってのけた。
それは日本の漆工芸家たちから不可能視されていた難事業だった。舞台は昭和初期に建てられ”日本美の殿堂”、”漆・螺鈿工芸の殿堂” と呼ばれた東京目黒の雅叙園である。結婚式場や宴会場としてこれほど華麗な会場はないと言われている雅叙園は、延べ建坪が 8000坪、客室数200、廊下の長さを合わせると2000メートルに及ぶ。その広大な雅叙園は全ての空間が漆・螺鈿工芸作品に 覆われていると言っても過言ではあるまい。しかもその多くは昭和初期を代表する人間国宝たちが渾身の力をこめて製作した ものであった。難事業とは、建設以来60年が経過した雅叙園全体の大修築を行うにあわせ、ヒビ割れてきた数知れない漆・ 螺鈿工芸作品全てを補修し、さらに新しい作品も同時に大量に創るというものだった。
日本中の工芸作家が全てしりごみする中、「では私が引き受けよう」と申し込んだのが、釜山出身の全龍福さんだった。彼は故郷の 慶尚南道から実力ある漆職人を延べ数100人も日本に連れてきて”不可能”に挑戦した。いらい3年間、人間の限界を越えるといわれた仕事に取り組み、 1991年みごとに不可能を可能にしてみせたのである。
どうも韓国人の地の中には、この全さんのように「百万人と言えども我行かん!」という気概を持つ人が多いように思う。一見普通の韓国 女性と見える金河永さんにもこうした資質が充分あるようなのだ。
彼女にはこんなエピソードがあると聞いた。彼女の日本留学にまつわる話である。ソウルの高校に通っていた彼女は、なんと高校在学中から 卒業したら、日本語を学ぶため日本に留学するつもりだったという。言葉をマスターするには、その国になるべく早く留学するべきだと 思ったからだ。ところがアボジ(父)やオモニ(母)は、「とんでもない。日本語のいろはも分からない娘がこのまま日本に行ったら、 どんなことになるやら・・・」と大反対だった。親とすれば当然の反応だろう。
しかし、そこで諦める彼女ではない。一年間、親のいうままにソウルの日本語学校に通った後、両親にこう訴えたという。 「アボジ、オモニ、日本語はひこの1年間で先生もほめてくれるほど上達しました。ところでアボジの妹である叔母んが日本の名古屋に住んでいるでしょう。 この上は私が名古屋に行って叔母さんの家から日本語学校に通えばアボジたちも、もう心配しなくてもいいでしょう。ぜひ日本への留学を 許してください!」。
永年、留学に反対してきた両親も、彼女の筋の通った説得に折れ、名古屋行きに同意せざるを得なかった。勇躍、名古屋に来た彼女は日本語学校を 経て愛知県立大学の日本文学科に入学する。多少回り道はしたものの、念願通り若いうちに日本に留学した金河永さんは、日本人並みの日本語能力を買われ、 在学中から総領事館の職員に採用されるなど、自分の設定した道をまっすぐに着実につき進んで来たと言える。
その強靭な意志の力が歴史座談会の読みにも現れているように思えてならない。
金河永さん、2?才、美人にして才媛の彼女は、まだ独身だそうだ。韓国で暮らすアボジやオモニは、娘の活躍を喜びながらも 「もうそろそろうちの河永もなあ・・・」などと話しあっておられるであろうか。

(注)編輯子より 河永嬢から ないないの内緒ばなし

富貴栄誉を排し質素勤勉を尊び 身体強健にして心気柔和
 天地を知りて位置(立場)を弁へ 左を知りて右を知る
  父母兄弟を慈しみ親旧同僚を顧み 日々今日に感謝し明日未来を所重にし
   山河国を愛するほどに私、河永を慮って下さるなら 私、嫁ぎます。
続けて、南北の統一の成る非 何処かの貴方と統一が為されましょう。 とのことです。


薄明かりのランプに原稿をさらし画面と絶妙なタイミングで同時翻訳に
勤しむ名調子 金河永アナウンサー

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