広開土王の西北征服路を訪ねて(3)
西拉木倫河畔


高句麗の地に立つ李成梁牌楼


後3時30分、北寧市に戻った。 この北寧市は長い間、檀君朝鮮と高句麗の地であったという確かな記録が錦州府志に出ている。 北鎮を出る前、踏査チームはしばし李成梁を称える牌楼を訪ねた。ここをただ通り過ぎることが出来ないのは、 この牌楼の主人公である李成梁がまさにわが民族だからである。筆者が鉄嶺にある高句麗の催陳堡山城に登り、 偶然に李成梁の子孫に会い入手した情報によると、李成梁の曽祖父・李英が明の初期に鴨緑江を越えて鉄嶺に 根を下ろしたといい、「李氏の原籍は朝鮮人である」と、明確に書いてある。
李成梁は16世紀、鎮守遼東の大将であった。鉄嶺で生まれた李成梁は、幼い頃、家が貧しかった。40歳を過ぎて 遼東総兵官となる。何度もモンゴル族の侵略を退け、ヌルハチの父と祖父を殺すなど、輝かしい功績が認められたのである。 中国東北地方で李成梁が有名であるが、韓国ではむしろ李成梁の子・李如松が有名である。文禄慶長の役に際し、明軍 司令官として4万の兵力を率いて朝鮮に来た李如松が李成梁の長男である。
これまで、李成梁牌楼を訪ねた多くの先人達は、李成梁が大国に行き、高い地位についたことを感嘆賛美してやまなかった。 それは今、我々が唐へ渡って高く用いられた高仙芝や李正己を褒めるのと同じ気持ちである。しかし今、歴史を再度復元しなければならないという 側面で見ると、実は出鱈目なことである。高句麗が滅びた後、敵国へ行って出世した人は賞賛に値する反面、現地に 残って30年もの間、血を吐きつつ独立運動をして渤海を建てた勢力を忘れているのであり、明に事大する余り、朝鮮民族と 最も近い兄弟であり高句麗の昔の地に住んでいた女真族を追討した李成梁を仰ぎながら女真族をオランケと蔑んだのである。
「もし、植民地時代に日本に渡って日本が米国を攻める時に大きな功績を挙げたとしたなら、 それは果たして誇らしいことなのか?国内で苦しみながら独立運動をした志士達と比較する価値があるのか?」という 複雑な心境でこの地を後にした。

負山を越えて契丹へ


巫閭山に到着した広開土王の軍隊は、 その次にどこへ行ったのか?医巫閭山から契丹の本拠地である内モンゴル・林東に向かい、努魯児虎山脈を越えなければならず、 この山脈を越えれば契丹の本拠地まで行く途中、大きな山はないので、この山こそが富山を越えて現れる負山と しか考えられない。
努魯児虎山脈を越える道は2つあるが、北票市から内モンゴル・敖漢旗に行く道は当時、後燕の首都であった龍城から 40kmしか離れてないため、踏査チームは阜新市から内モンゴル・奈曼旗へ越える道を選んだ。

 

(上から順に)
医巫閭山の阜新トンネル
北寧市 李成梁牌楼
阜新市

7月8日、終日、燕が建てた長城を踏査し、夕方7時に長城を離れて努魯児虎山脈を越えた。 意外にも山脈を越える道は険しくなく、ちょうど大関嶺を越えるような丘陵のような景色が続く。時折、 最近に特殊な樹種を開発して植えた木が現れたが、基本的には草原が続き、樹木の多い医巫閭山とは対照的であった。
"では広開土王はなぜここを負山と呼んだのか?"
どう考えても簡単には解けそうもない謎である。
"負は、背負う、勝負に負ける、負債を負う、失う、不定の助動詞、という具合に、相当にマイナスの意味を持っている ため、豊かな医巫閭山をぷらすの富山と表現したのに対し、何もない禿山を見た高句麗軍にとって、努魯児虎山脈は マイナスイメージに見えたのではあるまいか?"
深い考えに没頭していたところ、急に車が遼東に向かい始める。遼寧省を抜け出すと、道路が急にデコボコの未舗装道路が 始まった。9時10分、内モンゴルで初めて遅い夕食を済ませ、10時に出発して夜中の1時25分、奈曼旗に到着するまで、 3時間25分はまさに暗黒の中の死闘であった。雨が降った後の内モンゴルの道は、完全にぬかるみであった。 ツルツル滑る路面は氷の上よりもひどく、新しい道が出て来ても尋ねる人もおらず、夜遅く通る車もなく、 途方に暮れたことが一度や二度ではなかった。負山を越えることは車でも大変に苦労することであった。
砂漠を越え、西拉木倫河へ


7月9日、今日は少し遅く9時40分にホテルを出発した。 砂漠地形が姿を現す。昨日通った遼寧省と周囲の風光が完全に変わったのである。広開土王の軍隊が契丹を攻めるなら、 必ず西拉木倫河を越えなければならず、西拉木倫河まで行くには、山脈を越えてこんな砂漠地形を越えなければならなかったはずだ。
我々は既に広開土王碑に現れた富山と負山を過ぎ、これから塩水を探さなければならない。これまで塩水についての学説は、 いろいろあった。鴨緑江の昔の名前である塩難水と同じ、「塩」の字が入っているとして鴨緑江であるとする説、 当時の高句麗の領土が遼河を越えられないという仮定の下、遼河以東であるという説、契丹の位置等を勘案し、 西拉木倫河であるとする説、などである。我々は最後の西拉木倫河説を確認するために、今険しい道を進んでいるのである。 鴨緑江説は塩難水が首都の国内城のど真ん中を流れる川であるため、検討する必要もなく、広開土王が契丹を攻めて戻る時に 遼河流域にある高句麗の村々を見て見て回るところを見れば、遼河流域は既に高句麗の土地だったわけであり、 塩水は西拉木倫河でしかあり得ないと結論付けたのである。
問題は、なぜ塩水という名を付けたのかということだ。富山と負山が、現地の地名というよりは征服軍隊が現地で 付けた名前だということを見た。とすれば、塩水も塩辛い味のする川である可能性が最も大きい。そこで、昨年、 大興安嶺の裾から西拉木倫河に至る道を辿り、水が塩辛い湖や川を探し回った。しかし巴林右旗から赤峯へ行く道にある 西拉木倫河で、川の水が塩辛くないことを確認、我々が立てた仮説を証明することは出来なかった。
"西拉木倫河が塩辛くなくてはならない。"
それで初めて西拉木倫河説が説得力を持つ。そこで今年再び、富山と負山を越えて西拉木倫河に向かっているのである。


干からびた時令河
  塩水を探して西拉木倫へ


西拉木倫河の踏査は、翌日の朝から始まった。6時、林東を出発した 踏査チームは、11時10分、西拉木倫河畔の村に着いた。
"時令河だ"
心の中で叫んだ。川幅が2〜3kmにもなる大きな川に、水が全くないところである。 時令河とは、季節によって雨がたくさん降る時には水が流れ、降らない時には干上がる川を意味し、 韓国語で言えば季節江ぐらいの意味になる。
昨年、赤峯へ行く道で見た西拉木倫河には、多くはなかったものの水が流れていた。しかし ここは、水が流れた跡は借款あるものの、一滴の水もない。これは全く意外なことであった。 漠然とではあるが、この季節江と広開土王の塩水とが関係があるかも知れないという予感がした。 最後の小さな水溜まりが乾きながら作り出した纎細な砂層が神秘的で、枝がほとんどなく幹に葉が茂った 川べりの柳が奇異だ。
"しかしこの川は、水が塩辛い川ではない"
踏査チームは塩水川を探しに来たのであって、景色を見物に来たのではない。我々は西拉木倫河を 続けて調べて見ることにした。車に乗って西拉木倫を横切る大橋を過ぎ、向こう側へ車を走らせた。 季節江は続く。
"イェンチェンディだ"
運転手が叫んだ。イェンチェンディは、塩地を中国語で発音したものである。 塩地とはアルカリ性土壌のことで、塩気が沢山含まれ、腐った有機物質が表土を黒く染めて アルカリ性反応を示す土地を指すが、韓国語で言えば「塩気のある土地」となるだろう。
"そうだ、これがまさに塩水だ"
恰もヨルダン川の市会米国のソルトレイクシティーの塩川のように塩辛い川の水ばかり考えていた筆者としては、 この塩地という単語が塩水問題を解決する上で重要な鍵となった。 今は堤防によって川の外側になっているが、広開土王の軍がここを通る時には、全てが川底だったはずで、 高句麗の大軍にとっては塩川のようなものだったであろう。

西拉木倫河と西遼河が塩水だった


2時30分、大興に到着し、まずは空腹を満たした。4時に出発し少し行くと、 西拉木倫河と老哈河が合流する地点があり、ここからは西遼河となる。2つの川が出会う場所は浅いものの水は見えた。 踏査チームは、西遼河の南側の川岸に沿ってアルカリ土壌を引き続き探して行った。しかしここでは、昔川底だったところを 堤防でふさいだ後、田んぼにしていた。
午後6時、ついに西拉木倫河と西遼河が塩気が多い川であるという決定的な証拠を見つけた。 明仁郷の新立屯に着くと、青い稲穂の間に草も生えないアルカリ性土壌が数千坪現れたのだ。白い塩が地表面に拡がっていて、 ところどころが黒く変わっていた。
"ここは塩気があり、穀物が育たず、草も生えない。"
"灰汁がたくさん含まれていて真っ黒だ。これは水で洗ってもダメだ。"
集まって来た村人のうち、チャイ・ポントンという若者が進んで一生懸命説明してくれた。
"この西遼河南側畔がずっとそうなっている。東側は東来まで、西側は平安地までだ。川岸から遠く離れると存在しない。 西拉木倫河にもこんなところがあると親戚達から聞いた。"
"塩が地表に出ているところを外塩地、地中に潜っているところを内塩地という。 外見上は何ともないように見える内塩地も、草を植えれば枯れてしまう。"
まるで専門家のように説明してくれるチャイ氏の説明を聞いて、心の中に言い表せない喜びが溢れて来た。砂漠を、山を、 草原をさまよい、ついに広開土王の軍隊が契丹軍を撃退するために越えた塩水を見つけたのである。

 


(上) 西拉木倫河の塩
(下) 塩水を見つけた喜びで
記念撮影

 

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社団法人 高句麗研究会