(上) 遼河平原の端を塞ぐ
医巫閭山 (下) とうもろこし畑の無慮城台 |
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医巫閭山は富山
入
場券の裏の説明を見ると、堯舜の頃から12大名山の一つに数えられたというが、遺跡の大部分は遼以後、清時代のものである。
この時には、この山が神霊山の一つに数えられ、寺、文廟、殿閣、東屋みたいなものがたくさん建てられ、
山裾には北鎮古城もある。黄山の奇妙、峨嵋山の秀麗、泰山の雄壮、桂林の美を全て備えているとするここは、今では家族や
アベックが訪れる観光地となっている。東胡族の言葉で医巫閭山という言葉は大きいという意味だという。
清時代のいくつかの寺と文廟を見た後、まずケーブルカーに乗った。ケーブルカーに乗って玉泉寺に向かいつつ、我々が
来た遼河平野を眺めると、果てしない平野が拡がっていた。小さな東屋に座り、白頭山・千山とともに中国東北3
大名山といわれる医巫閭山の絶景を鑑賞し、久しぶりにのんびりした時間を過ごした。
今、筆者は東北の3大名山を、いや鳳凰山まで合わせて4大名山を全て登ったのである。陰山山脈の分枝であるこの山は、
長さが45km、広さが630平方キロであり、有名な頂だけでも50を越えるという。しかし入口に入るや否や、驚くほど人の手が
つけられた周辺の景観が、他の3つの名山と比べられる。
周囲を鑑賞しつつも、私の頭の中は一つの話題で一杯になっていた。
"なぜ高句麗はこの山を富山と読んだのか?"
松、満州胡桃、菩提樹などの鬱蒼とした森とチェストナッツ、なつめの木などの有実樹が見え、あまり大きくなっていないが、
山葡萄畑も見える。今は治水事業がしっかり行われ沃野になったが、昔のように氾濫した遼河を辛うじて渡り、拡がる沼地
を走って医巫閭山に着いた時に現れるこうした豊富な山林資源が、山の中で訓練された高句麗軍にとっては富山に映った
のではないかという想いがよぎった。長い間の謎が解けた。
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