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延吉市内史跡巡り
2006年9月23日(土)
市内を案内するのは延辺大学で歴史を研究する大学院生T君。この日は日頃の研究成果発表の場となりました。
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まずは局子街を北へ。
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◆延吉捕虜収容所
延吉には日本の敗戦後、ソ連の手によって第1収容所(俗称28収容所・元関東軍28部隊の駐屯地)や
第2収容所(俗称646収容所・元第646部隊駐屯地)、第三病院(元間島陸軍病院・987部隊・
現在は延吉市陸軍路3号の223医院)が造られ、日本人捕虜の集結地となった。
多くの日本人はここから「トウキョ・ダモイ」と言われ、シベリアに送られる。1946年4月に
ソ連が撤退してからは東北民主連合軍の吉東軍が管理した。延吉捕虜収容所について言及した
中国(延辺)の 書籍はまだない。延吉市民の中でも延吉捕虜収容所について知っている人は少ないと思われる。
現在は軍の施設、戦時中は646部隊、戦後は延吉捕虜第二収容所のあった場所です。
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その南側には延辺大学医学院
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局子街から東に入る道・軍民路にも軍の施設がありました。
戦時中はこのあたりに間島陸軍病院・987部隊(現在は延吉市陸軍路3号の223医院)、戦後は延吉捕虜収容所第三病院となり多くの日本人が収容されていたようです。
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天主教堂
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記録によると1945年9月末、日本軍人家族が天主堂、省公署に移転。
延辺大学芸術学院の前にあるこの教会には多くの信者が集まるようです。
きれいな教会です
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天主教会を見学した後は局子街にある中央小学校をバスの中から見学。この小学校は戦時中“大和小学校”と呼ばれていました。
延吉芸術劇場は延吉監獄跡地に立てられたのですが、満州国皇后の溥儀夫人・婉容が収監されていた場所として有名です。
婉容は1946年6月20日、40歳でこの場所で死亡。
延辺芸術劇場
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その横には延吉監獄抗日闘争紀念碑。
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延吉監獄歌
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延吉公園へ。
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正門からまっすぐ進むと階段があります。
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脇の石、手水舎(てみずや)の水盤跡です。
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先ほどの階段は参道でした。この一帯は延吉神社跡なのです。
よく探せば鳥居、灯篭、狛犬、本殿の跡等が見つかるかもしれません。戦時中は静粛かつ神聖な場所であったはずです。
延吉公園北西に向かって進みます。
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途中石碑がありました。
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この場所は約2000年前・漢代前後にこの地に住んでいた住人の村落跡地の一つで“小墩台遺跡”
と呼ばれています。この付近からは文物をはじめとする多くの出土品があったようです。それゆえこの石碑の
東西各400m、北300m、南100mは重点保護地域になっています。
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高台にある建物目指して上がります。
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この辺り、日本人埋葬地帯だそうです。
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解散。T君ガイドお疲れ様でした。
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