貫井正之(東海地方朝鮮通信使研究会代表) |
1.実物 乙未(明暦元年・孝宗6年・1655年・第6次)朝鮮通信使、趙(チョ・ハン)筆の板刻詩稿が、 今般、保々(ほぼ)家(岐阜県瑞浪市大湫町400)から出現した。同板木は縦36.8cm、横63.6cm、厚さ2.5cm、ケヤキ材から出来ている。 同詩稿が作詩されたのは350年前であるが、板刻版はやや後世であろう。それでも数百年を経るが、板版・刻字の損傷・摩滅・汚損 などは少なく、保存状態は比較的良好である。保々家は代々中山道大湫(おおくて)宿の脇本陣(本陣)をつとめた旧家であり、 現当主・保々和男氏は19代目である。 発見の経緯は2005年2月初旬、瑞浪市図書館古文書研究会の今井慶治氏が発見され、会員・西村鞠子氏を経て東海地方朝鮮通信使研究会 に当板刻詩稿(写真版)の解読と鑑定を依頼された。会員・榊原弘恵氏の協力を得て解読し、さらに研究会は4月26日、加藤復三・ 小栗明郎氏らを交えて大湫宿保々家にて当板刻を実見し、精査・検討を加えた。 |
2.詩稿の内容 乙未(1655年)朝鮮通信使派遣は、江戸幕府の第4代将軍家綱襲職祝賀を目的とした。 同通信使正使を拝命したのが大司諫(正3品)趙であった。彼らは同年4月20日、漢城を出発し、 4月28日、慶尚道礼泉郡に到着する。礼泉郡は趙の出身地でもあった。郡守・金寅亮(キム・インリャン) は使節・趙一行に対して快賓楼で餞別宴を設けた。快賓楼という楼閣は。尾張近辺はもとより、日本のどこにも 見当たらない。板刻詩稿中の快賓楼は礼泉郡の楼閣を指し、板刻の原詩稿はそこで作詩されたと考える。板刻詩稿を解読し、 句読点を施すと、
詩稿本文は七言律詩である。あわせて、同詩稿に脚注を挿入して読み下すと、 この楼(快賓楼)に上し、眼界の奇(勝)を憶い、 南征の命をして(渡日拝命)、またこれに登る。 山河の気色は今日に依るに、 節物(景色)・風光は昔時と異なる。 酒泉(宴主)の賢太守(金寅亮)に多謝し、 共に清音を聴き霊祠に歩む。 清政、人に騰るを試看し、 去るに臨みまさに堕涙碑に留むべし。 乙未夏、通信吏(使)をもって、行は本軍(礼泉郡)に到る。 同(とも)に快賓楼に登り、また副使と歩む。天に代わり金使君に韻呈す。 豊城(壌)後人趙 |