美濃大湫宿・朝鮮通信使正使筆板刻詩稿

貫井正之(東海地方朝鮮通信使研究会代表)

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3.趙使行録「扶桑日記」

それではどのような根拠で保々家蔵の板刻詩稿を趙が礼泉で詠んだものと考えるのか。 趙は来日使行録として「扶桑日記」を残しているが、同書は朝鮮通信使使行録を 集大成した朝鮮古書刊行会編纂「海行載(かいこうそうさい)」には掲載されていない。 しかし、趙の「扶桑日記」が実在したことは、辛卯(正徳元・粛宗37・1711年・第8次)通信使 正使・趙泰憶が渡日使行任務の手引書として趙の曾孫・趙景命から同書を借用し、帰国後、 趙が日本に残した墨書を添書して景命に返還している。ところが現在はその原本の所在は 不明であるが、明治時代に日本人の手によって「扶桑日記」の写本が作成され、その後それは米国ハーバード大学燕京(北京) 研究所に移蔵された。『大系朝鮮通信使・第3巻』(明石書店、1995年)は、その全文を収録する。 「扶桑日記」の4月28日条を見ると、趙一行は、同日夕刻、礼泉郡に到着し、一行は郡守・金寅亮に 快賓楼で餞別宴を受け、深夜に至ったと記している。保々家蔵の板刻詩稿は、日記・詩稿内容からこの時のものと考える。 なお、趙一行の名古屋止宿は往路9月19日、還路11月11日、12日であるが、「日記」に 詩稿授受等の記事は見当たらない。

4.趙の経歴

は1606年(宣祖40)、慶尚道礼泉郡豊壌に生まれ、号は翠屏(チビョン)。 1626年(仁祖4)、文科に合格し、大司諌(正三品)の時、通信使正使を拝命する。帰国後、 彼は礼曹参判(従二品)、大司憲(従二品)、工曹判書(正二品、大臣)という朝鮮王朝の要職を歴任している。1679年没。

5.資料的価値

(1) 保々家蔵・趙筆板刻詩稿は「扶桑日記」の記事、内容等から、趙筆詩稿 に間違いない。ただし、筆勢は模刻ゆえ能書家・趙の直筆に比べて劣るのはやむを得ない。
(2) 17世紀以前の朝鮮通信使使節、特に正使の遺墨は全国的にも希少であることから、貴重な資料である。当地方で 趙の遺墨は静岡県清見寺蔵の扁額と詩稿を見るだけである。他地域での彼の遺墨は、京都南禅寺 金地院元良和尚と唱和した「朝鮮三官使酬和」、林羅山詩集の序文「呈朝鮮翠屏竝序」、「又呈翠屏竝序」、 牛窓・本蓮寺蔵の書幅などがある。いずれもこれらは名刹・著名人宛てのものである。
(3) 朝鮮で詠まれた旧詩稿が日本にもたらされ、それが板刻されている事例は珍しい。
(4) 通信使の沿道ではなく、、中山道大湫宿という東海道筋から遠く離れた宿場にまで通信使の足跡が残っているのは、 通信使来日の影響は日本全域に流布したことを立証する事例である。

6.疑問点

(1) が朝鮮で作詩した旧詩稿がなぜ日本に残ったのか。
(2) 正使・趙筆の詩稿がどのような経路で大湫宿脇本陣保々家に伝来したのか。
(3) の生地は豊城ではなく豊壌であるが、同板刻ではなぜ異字になっているのか。 両字とも日本音では同音の「ジョウ」であるが、朝鮮音では壌は「ヤン」である。後世板刻の時、同音のため 間違ったと考える。
(4) の日本に残る遺墨の署名はいずれも本名でなく、号翠屏を使用し、また生地まで 署名しない。同板刻には生地・本名を記しているのはなぜか。板刻時、詩題・年記・官職・氏名の加除は他の 遺墨板刻に見られる。これは板刻時、同板刻文が著名な正使・趙筆を顕示するため改作したのではなかろうか。 しかし、原詩稿の内容・字数・形態を変更することはないから、同詩稿も趙の原文と考えてよい。 なお、礼泉快賓楼に趙の詩稿、懸額などの有無については、韓国釜山大学教授韓泰文氏に調査依頼中。
(5) 中山道沿いの当地方には、朝鮮通信使関係資料として、他に御嵩宿愚渓寺の「扁額」、細湫宿本陣大黒屋(尾張藩定宿)の 遺墨「扁軸」(未調査)が所蔵され、隣宿大井(恵那市)の市川家には通信使絵巻「韓使来聘図」がある。この地域に通信使 関係資料が集中しているのはなぜか。当地域が尾張藩領飛び地の関連か。大湫宿・大井宿には尾張藩の白木番所が置かれた。

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