津のほん別冊:『安濃津物語』 19997

表紙イラスト
●中国明代の日本研究書には、日本に対する軍事的な警戒から、詳細な記述が多く見られる。
その中で、安濃津(洞津)に関する記事が見受けられるのは、『武備志』(左写真・1621年刊)においては「津要」という湊に関する記述部分である。
洞津は、坊津[鹿児島県]と花旭塔津[福岡県]とならび「三津」と称される。
また『日本風土記』(右写真・1591年頃刊)においても、ほぼ同様の記述内容となって
いる。

巻頭言=近藤康雄


安濃津物語事業概要
郷土の文化と歴史を訪ねて「安濃津」

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安濃津物語記念講演会「海の道・陸の道・文化の道」
『考古学から見た伊勢湾・伊勢の地』
=八賀 晋
資料に見る安濃津港=稲本紀昭
座談会
=八賀 晋・稲本紀昭・酒井 一(聞き手)

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市民講座
「天照大神の道」伊勢神宮と安濃津から
=中西正幸
安濃津と太平洋海運=矢田俊文

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安濃津物語シンポジウム
記念講演「緑の星に生まれて、青い海と港」=立松和平(講演要旨)
シンポジウム
=村松賢治・伊藤久嗣・関谷真実・伊藤裕偉       
目崎茂和(コーディネーター)

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「奉」字刻書土器と倭国大乱シンポジウム
ごあいさつ=坂野英夫
基調講演・大城遺跡の調査成果
=田中秀和
基調講演・安濃川流域の弥生時代遺跡について=浅生悦生
基調講演・三重県内の弥生時代遺跡について=伊藤久嗣
基調講演・伊勢湾岸の弥生時代後期土器について=赤塚次郎
基調講演・大城遺跡の刻書土器と文字文化の黎明期=東野治之
基調講演・最古の文字と二〜三世紀の日本=水野正好
シンポジウム=東野治之・伊藤久嗣・赤塚次郎・浅生悦生
水野正好(コーディネーター)

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ジオスライサー試掘による安濃津の解明
=目崎茂和

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明応大地震メモリアル・カンファレンス


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中世安濃津の世界、風土・歴史・伝統
=大川吉崇
最初の一歩〜あとがきにかえて〜
=村山武久

安濃津物語事業の成果
 安濃津物語事業は、郷土安濃津(三重県の中央部)が壊滅的な打撃を受けたとされる明応の大地震から500年の節目を迎える節目の年に、郷土の起源や成長を見つめながら、郷土が歩んできた道のりをひもとき、歴史と文化に育まれたまちづくりを進めていこうという趣旨から、国・県・広域市町村、三重大学などのご支援のもとに、津市・安濃町・嬉野町・津のルーツを探る会の4者で、安濃津物語実行委員会を結成し、市民講座やシンポジウム、そして特別展覧会など11にわたる多彩な事業を展開することができました。
 今回の事業の特色は、市民のみなさんと行政がともに手を携え、相互がパートナーシップの視点に立って文化事業を推進していく点にありますし、もう少し大きな枠組みでとらえるとするならば、産学官民が一体となって取り組んだ事業として位置づけできると考えています。
 まず、民間活力の分野においては、市民活動団体(津のルーツを探る会)による成果でありますが、各種勉強会はもちろんのこと、地震・津波層を安濃津の推定地から発見しようという科学的手法も試まれ、地震の痕跡と推定される貴重な資料も得られることとなりましたし、同時に開催しました市民講座の試掘調査においても、多くの方々が安濃津をより身近なものとしてとらえていただけたものと考えております。
 学術分野においても、地域に開かれた大学づくりの理念のもと、現在、地域共同研究センターを中心に進めております将来的な「伊勢湾文化研究」の視点からのお話もいただくなど積極的なご参画を得たところです。
 産業の分野においても、青年会議所や産業界のみなさまに郷土のまちづくり事業としてご賛同をいただき、安濃津物語事業へのご参加や全国フォーラム(津の名がつく全国22市町が参加した大津フォーラム)などを通じ、安濃津を全国発信していただきました。
 また、官公庁においても津市としての単独事業にとどまることなく、広域的な取り組みを進めてまいりました。
 8月に開催いたしました特別展覧会では、三重県埋蔵文化財センター、安濃町・嬉野町をはじめ、多くの市町村のご協力を得て、安濃津の町並み遺跡である安濃津柳山遺跡の出土品や、日本最古と推定される刻書土器・墨書土器そして、安濃津を紹介した中国明代の兵法書「武備志・日本風土記」などを一堂に集め、大規模な展示を行うことができましたし、併せて津地区広域行政圏全域にわたる参加者を得て、歴史街道探検隊バスツアーも実施できました。
 また、安濃津という歴史に根ざした地場産品の育成も進み、安濃津木綿や日本酒など8品目にわたる安濃津物語銘柄の地場産品が誕生することとなりました。さらに、明応の大地震により、汽水湖となりました浜名湖周辺9自治体との地域間交流の推進など多くの軌跡を残すこともできたところです。
 このように、郷土をとりまく豊かな歴史や文化を生かした事業を通じ、広域的な交流の舞台を創造できましたことを大変嬉しく思っています。
 今回の一連の事業を通じ、自分たちの住むまちのルーツをしっかり見つめ、学んでいくことが、ひいては郷土愛につながり、後世に向けての新たな文化創造と地域づくりにつながるものと考えています。
 また、地域づくりには、多くの市民のコンセンサスを得ることが前提と考えますが、今回、多くの市民参画を通した行政と市民の協働による実践活動が共通のコンセンサスづくりの大きな力となるものと考えております。
 郷土「安濃津」の歴史をひもとくことで故(ふる)きを温(たず)ね、歴史と文化のまちづくりのため、新しい知識を創造するといった実践活動を今後も前向きに考えてまいりたいと考えており、安濃津物語の今後につきましては、これまで述べた事業の主旨や性格などをふまえ、市民講座等も含め、事業に参画された多数の市民のみなさまからのアンケート調査によるご意見の把握や、幅広い地域づくりの観点からの意見集約の場も検討し、今後未来に向かって、具体的な望ましい事業の展開についても検討しています。
ジオスライサー試掘調査による安濃津の解明
「埋もれた安濃津」を探すために

 中世に栄えた安濃津の湊とは、どの地域にあり、どんな町であったのか。その解明には、古文書類の資料が少ないため、地下に眠るであろう地質や埋蔵資料などが、その有力な手掛かりであることは、間違いない。「埋もれた安濃津」を探すことが、本稿の目的である。
安濃津は、安濃川・岩田川河口近くの海岸周辺の沖積低地に発達した湊町であるが、とくに『津市史』によれば、現在の岩田川右岸の津興柳山付近が有力と考えられてきた(梅原・西田、1954)。しかしながら、いつの時代から湊の機能をもつ町(集落)が発展し形成していったか、いまだ明確ではない。また安濃川中下流域の納所遺跡などの弥生遺跡群の存在や、とくに近年の安濃町大城遺跡からの刻書土器(2世紀中頃、弥生時代後期)の発見は、その時代まで安濃津の存在が溯る可能性を暗示させるものである。
少なくとも古代にまで辿れると考えられる安濃津の湊町は、明応7年(1498)8月25日(新暦にすると9月20日)の東海沖を震源とする大地震(明応地震)によって、その町の機能が壊滅的な打撃を受けたことが、歴史的な事実として知られている(稲本、1989)。そして、中世の安濃津の様子については、平成8年に実施された安濃津柳山遺跡の発掘成果(伊藤、1997、伊藤ほか、1998)を契機として、新しい考古学的資料が加わり、その一部が明らかにされるとともに、その解明に向けての関心が集まるようになった。しかしながら、この500年前の大災害や事変によって、安濃津の町並みや湊などはどのように変化したのか、その実態については、いまだ不明なことがらが数多く、謎に満ちている(伊藤、1998、津のルーツを探る会、1998)。
とくに、大地震による災害前の安濃津の湊や町の位置や規模などは、未だ確定されていないし、その範囲も明らかでない。そのため、多くの推論の図などが描かれてきた(例えば四方、1912)。さらに、この大震災による湊消失の主な原因についても、『津市史』第1巻による地震陥没によるものか(磯部、1984)、あるいは大津波によるもの(目崎、1989)か、未解明なところでもある。
本研究は、安濃津の湊や町の位置や規模、機能などを解明し、明応地震を前後の安濃津の環境復元をする目的で、沖積低地の微地形の特徴から、中世の湊位置の可能性をさぐり、さらにジオスライサーによる表層地質調査を実施して、その探査を試みたものである。
この調査は、「津のルーツを探る会」が中心となり、ジオスライサーの開発者でもある広島大学地理学教室・中田 高教授グループ、津市文化課、津市埋蔵文化財センターの協力を得て、平成10年度「安濃津物語事業」の一環として、明応地震から500年目にあたる1998年に実施したものである。この報告は1998年調査の予察的な結果であり、地質資料の詳細な試料分析、年代測定の結果などをふまえての総合的な成果報告は、今後の分析研究結果なども踏まえて、後日に期したい。

ジオスライサーによる地質調査と試掘場所

安濃津の湊の位置をさがすにしても、海岸近くの沖積低地であり、海抜(標高)0m付近かそれ以下の地層をもとに検討する必要が生まれる。その地層は地下水で飽和されているのが通常であるから、考古学的な発掘などは不可能である。従来は、そのため地質ボーリングのコア試料などから、その分析がなされてきたが、その試料の幅が小さく地層の特徴が捉えずらいため、湊の特徴を示すような層相や、津波層などを検知することは困難であった(西仲ほか、1996)。
そのため、近年活断層調査などにあらたに試作された地層抜き取り装置・ジオスライサーを利用して、その製作者でもある中田 高教授の現地協力、器材などの借用のもとで、調査を実施することを試みた。ジオスライサーの装置やその調査法はじめ、その有効性・問題点などは、中田・島崎(1997)に詳しいので省略するが、とくに今回用いた装置については、広島大学所有の改良型サンプラー3種を用いた。サンプラーの構造は、幅35cmX長さ2m(写真1)、幅35cmX長さ4m、幅1mX長さ1.5m(写真2)の3種で、厚さはいずれも5〜10cmである。その具体的な操作方法についても、本調査に参加した高田(1999)に詳しい記載がある。

本調査では、都市市街地での沖積低地の地質調査、とくに湊の位置検証や、津波層の検出のために、この装置を本格的に使用した最初の企てである。 この調査では、ジオスライサーの試掘場所の選定、交渉などが、実施以前の最も重要なポイントであり、調査地点の土地提供者やその周辺住民の協力があって、はじめて可能となる。
もちろん、安濃津の位置を推定するためには、各種の空中写真類、旧地形図、既成の地形分類図、現地調査などから、微高地や低湿地などの地形分類図を参考しながら、調査地点の選定を検討した。そこから予想される湊などに関係する地点で、ジオスライサー調査が可能なスペースが確保できる土地探しを行った。
今回は、調査を理解し協力を得るために、「津のルーツを探る会」では、97年から研究会・勉強会を会員や市民向けに開催してきた(『安濃津港研究』、1998参照)。それと平行して、事務局メンバーによる試掘地の現地探査、土地交渉や調査準備・実施、それに津市・安濃町・嬉野町合同の「安濃津物語事業」事務局の精力的な取り組みや活動なしには、短期間で本調査を貫徹することは不可能であった。
土地選定では、安濃津柳山遺跡を中心とした周辺湿地部などを候補地として、とくに会員からの申し出や事務局による交渉の結果から、図 1に示すように、

(1)今津、(2)馬池、(3)結城神社、で実施した。また、安濃津物語事業に一つとして、98年7月20日には、育生健康公園(旧津地方気象台で、安濃津柳山遺跡の東隣り)にて、市民向けにこの調査の試掘実演とともに説明会を実施した。
また、本調査に参加協力してきた広島大学大学院生の高田圭太による修士論文研究では、その後9月以降に市内の海浜公園、御殿場、海岸町と、県内の数箇所でジオスライサー調査を実施した。ここでは、その結果の一部で、とくに津波による撹乱層(津波層)が検出された(4)海岸町の資料を、比較検討のために取り上げる。その地層資料の記載などについては、その研究論文や図表などを参考、引用させていただいた(高田、1999)。

表層地質サンプルとその特徴

(1) 今津
現岩田川河口の右岸(南側)から約750m、阿漕浦の現海浜、浜堤部と柳山の微高地(旧砂州)に挟まれた堤間湿地(後背湿地)で、現海岸堤防から西180mの内陸部に位置する。中世安濃津の集落遺構が発見された安濃津柳山遺跡(図 1)の砂州の海岸側に接する湿地で、この遺跡(旧津実業高校校庭跡)から真東に約200mの距離にある。
昭和30年代までは、稲作水田として利用されていた松岡氏の畑地で、標高約1.2〜1.4mであると国土基本図から推定される。98年3月31日に、まず予備的に地表から直接に2m長サンプラーを2本採取した。表面から盛土層(黄褐色砂層)が-80〜-90cmまで、埋積ゴミ-90〜−150cm、水田泥層-180cmであったので、機械力で-150cmまで掘削した。そこでの地下水位は、地表面下−110cmであった。サンプルの最上部は、標高ほぼ0mに相当すると推定される。
4m長サンプラー2本の柱状図を、同じ掘削穴の中央部を今津(1)−@、その西約50〜70cmずらしたものを今津(1)−Aとして、図 2に示した。

@ 全体で200〜210cmの長さが採取され、最上部から−30cmまでは、撹乱した埋積されたゴミを含む表土、旧水田泥土である。その下−150cmまで、おもに灰色ないし黄灰色の粗砂・中砂層を主体とするが、その下部の−180〜−210cmまで、暗灰色のシルト質の砂層で、色調と層相から−150〜
−155cmを境にして大きく二分される。上部の砂層には、−60〜−80cm、−130〜−140cm、−155〜−165cm、細礫まじり黄褐色ないし黄灰色の粗砂部が三層認められ、水平なラミナをもち雲母片の目立つ黄灰色の中砂層に挟まるのが特徴である。 とくに、この上二層の粗砂層の間に、長さ60cmほど幅8〜10cmの黄色粗砂の噴砂が、中砂層を貫いているのが確認できる。きわめて特異な噴砂現象が、ほば完全な形で資料として取得できたことは、おそらく柱状サンプルとしてはこれまでに報告例が知られていない。そのため、 津市文化課では、このサンプル上部の噴砂部を中心に、保存用に剥ぎ取り断面として、展示にも利用できるようにしている。
A 基本的には、@の特徴と大きく変わらないが、さらに下部方向には、@よりも約120cmもの長さまで、全体で約300cm長のサンプルが採取できた。最上部から−20〜−30cmは撹乱部分であり、その下部は@と同様に、−170〜−180cmの上下で、色調や層相が大別できる。その境界部は、明確な乱れた構造はなく水平な層理で区分され、最下部の−300cmまで暗灰色のシルト質細砂や粘土質砂から主に構成する。とくに、−180〜−185cmには、腐食質の草本類や木片類と思われるものが、暗灰色のシルト質細砂に密集している。その下部は、すべて層理があまり明白でない暗灰色のシルト質細砂で、雲母片が多いのが特徴である。また−260〜−270cmには粘土質混じりシルトの泥質部が挟まる。一方、−180cmより上部は、@と同様に、細礫まじり黄褐色ないし黄灰色の粗砂部が、水平なラミナをもち雲母片の目立つ黄灰色の中砂層に挟まるが、とくに−50〜−60cm、−110〜−120cmでは、その上下に比べ、細礫のまじる粗砂部分が二層確認され、@の上部二層にほぼ連続すると対比されるが、@にような三層目が不明である。また、噴砂の構造も存在していない。

この二本のサンプルからは、Aで明らかなように、−170〜−180cmを境にして地層の特徴が二分され、大きく堆積環境が変化したことが認知された。上部は、粒度やラミナから、直接に海に面した海浜の環境下にあったと推定される。また、二・三層の10cm前後の細礫まじり粗砂部を挟むのは、河川からの供給の影響や高波時の堆積を暗示する。一方、下部層ではシルト質細砂を主体としラミナも不明確なことから、海浜部というより内湾的な堆積環境で、直接海から波浪にさらされない潟のような状況と考えられる。とくにこの最上部に植物の腐食層を集積することは、葦原をもつような潟湖の水辺も一部にあったようである。
この上下層の境界は、標高で現海面下約−180cmであり、その深さ前後をもつ潟湖が、海浜に変化した環境の変遷を物語る。現段階では、年代測定の資料がないので、この変遷年代が不明である。またこの境界面には、明瞭な侵食した痕跡が確認できないで、この環境の変化が大津波などによるものか否かは、判定できない。
@の上部層には、きわめて珍しい噴砂構造が明白に捉えられた。これは、上部層の堆積後の地震による可能性が高いが、その年代は不明である。なお、あまりにサンプル中央に明瞭な噴砂構造が得られたのは、偶然にしてもあまりに奇遇か特異なものである。そのため、あるいはサンプル採集時の振動、とくに蓋を打ち込む時などに、人工的に偶然に生成した噴砂構造との疑問もない訳ではない。今後の検討課題としたい。

(2) 馬池
安濃津柳山遺跡の真南に約200mの位置にあり、砂州の間の狭い堤間湿地にあり、中島氏の休耕田となっている。標高は2.0mほど、馬池の字名の通り、かっては池があったと伝承されるが、その範囲は不明である。
98年3月31日には、幅1mX長さ1.5mのサンプラーで、予備的な採取を行った。
地表から−1.5mまでは、すべて水田の泥層とそれ以前の木片・竹片などを含む埋め立て土層と判断されるものであった。
 7月19日に、4m長で採取した結果は、地表下−3.2mまでの図3に示した高田(1999)による。その説明によると、地表から−15cmまでが表土で、その下から−65cmまでは、暗灰色の細〜中粒砂からなり、中世ごろのものと思われる土器片が混在する。その間、−35〜−38cmには淘汰のよい灰色細粒砂が挟まる。−65〜85cmには灰色細粒砂を主体とし、暗灰色腐食質シルトが斑点状に混在し、−85〜−111cmまでには中粒砂を含む暗灰色細粒砂となり、とくに−105〜110cmには明黄灰色の粗粒砂が挟まる。
その下−111〜150cmまでは、灰色〜黄灰色の細粒砂が堆積し、著しく乱された構造をもっている。−150〜−238cmは細〜中粒砂からなり、明瞭なラミナ(葉理)構造が認められ、上部では水平なラミナ、下部では傾斜するラミナとなる。とくに−238〜−266cmには、クロスラミナ(斜交葉理)からなる淘汰のよい細粒砂となる。−266〜−320cmは均質な細粒砂で、ラミナは認められない。−320〜−330cmは灰色の細粒砂を主体にして、腐食質シルトや木片が混入する。これより下位は、淘汰のあまりよくない中粒砂からなり、径1cmほどの砂礫が混じっている。
図にも示すように、−150cmを境にして、その下部は、その堆積状態から海浜のわずか沖合いに位置するの沖浜環境から前浜(海浜)に変わったと考えられ、海が浅くなる海退過程の環境を示すものである。それから上部層は、泥質の細粒砂からなり、内湾化して潟湖や湿地(海浜や砂州の微高地に囲まれた低湿地)となり、現在の地形のような堤間湿地となったと推定できる。上部層の最下部には撹乱された層相(−111〜−150cm、標高0.5mほど)があり、これは津波層の可能性もあり、それ以後に環境が大きく海浜から内陸化して湿地に変化したことを暗示している。

(3) 結城神社
駐車場の南東端で、砂州部と思われる地点で、標高は約1.9mと付近の標高値から推測される。7月19日午前中に、盛土が厚いため、地表下−110cmまで掘削して、4m長を2本採取する。2本は同じところで、ほとんど同一の層相の特徴をなすので、そのうちの一本を、高田(1999)の記載や説明を参考にして、述べてみたい(図3)。

−4.4mまでのサンプルを採集できたので、実際のサンプルは330cmの長さである。−110〜−150cmまでは盛土であり、すなわち地表下1.5mまで中砂を主体とした盛土で、地下水面が−100cmほどに認められた。−150〜−180cmまでは、粗〜中粒砂からなり明瞭な水平なラミナが見られ、−170cm付近に径10cmほどの角礫が混入し地層も乱れもあり、人工改変を受けている可能性が強い。−180〜−263cmには、明瞭な水平ラミナを示す、淘汰のよい細粒砂からなり、所々に雲母の集積層かある。なお、上位の層との境は侵食性のように思われる。−263〜−285cmは、ラミナの不鮮明な均質な細粒砂で、上位との境界は明瞭な侵食面となる。−285〜−300cmは、腐食質のシルトを塊状に含み、ラミナの不明瞭な細粒砂からなる。−300〜−440cmまでは、暗灰色の細粒砂がほぼ水平に堆積しているが、ラミナは不鮮明であり、生痕や雲母の集積層が所々に認められる。
−150cmまで盛土で、その最下部の標高は約40cmほどである。その下部は−285cmまでは、ラミナの特徴から海浜(前浜)の環境下にあったが、その−300cmは、シルトを含み沖浜の状況と思われるが、湿地層を巻き込んで堆積しているので、津波層の可能性もある。−300cm以下の下部層は明らかな内湾環境を示し、少なくとも現標高から水深1m以上の潟湖や湿地であったと推論される。

(4) 海岸町
高田(1999)は、上記の調査のあと、独自で津市の沿岸部で、同様なジオスライサーによる調査を実施し、岩田川の左岸の海岸町と御殿場から、明らかな津波堆積物を発見したことを報告した。とくに明瞭なものとして、海岸町での2m長サンプルの一部(図4)は、剥ぎ取り処理して展示資料として津市文化課で保存している。

この地点は、海岸から250mの距離にある水田跡の低湿地で、標高はほぼ0mである。高田(1999)のよるN−1サンプルの層相記載を、まとめると次の通りである。地表から−30cmまでは盛土(旧耕作土)、その下−40cmまでまでは暗灰色砂まじりシルトで、瀬戸物片の混入から人工土層と思われる。−40〜−65cmは、暗灰色砂質シルトで、5cm層厚の明黄灰色粗粒砂がレンズ状に挟まり、また径1cm程度の礫も混じる。−65〜−100cmは、明灰色のシルト質細〜中粒砂からなる。−100〜−105cmは、暗灰色腐食質シルト質砂を挟んで、粗粒砂混じりのシルトが−118cmまで堆積する。−118〜−135cmは灰〜黄灰色の粗粒砂・細礫、−135〜−141cmは暗灰色腐食質シルトからなる。−141〜−150cmは淘汰のよい粗〜中粒砂のラミナか認められるが、下位の灰色シルト質粘土を削り込んだ侵食面直上は、やや粗粒となり淘汰があまりよくない。−150〜−185cmは均質な灰色粘土で、淘汰のよい中粒砂が塊状に混入する。−185cm以下には橙〜黄灰色の中・粗粒砂となる。
−150cmの侵食面を境にして、大きく層相が変化するが、下位の粘土層は、内湾環境に堆積したもので、現海岸に沿うような浜堤の背後の潟湖や低湿地と推定される。またこの粘土層に混入する塊状の中粒砂は、底生生物の生痕と考えられるが、確実な証拠は得られていない。この明瞭な侵食面と直上の砂層の形態からは、津波による急激な堆積変化の可能性がある。それを検討するため、3方向の面サンプルを新たに採取した結果、侵食の掘り込みが7〜10cmの深さであり、この砂層の示す流向は、南東から北西方向に向かうもの(現岩田川河口から内陸方向に)と確認できた。また上位の砂層には粘土が塊状に取り込まれ、下位の粘土層から巻き上げられたと推定される。これらは、これまでに報告のある津波堆積物の構造(Flame structure)とよく類似しており、津波層と推定される(高田、1999)。

津市海岸部の地形地質と環境変遷


津市臨海部の平野部は、安濃川を中心に雲出川、志登茂川などの河川堆積による沖積低地と海岸低地から形成されている。その地形的な特徴は、建設省国土地理院(1969)・三重県(1990)などの土地分類調査「地形分類図」よれば、海岸線に平行する3〜4列の微高地(砂州、堤州)とその周囲の低湿地(堤間湿地・後背湿地)、また河川の沿う微高地(自然堤防)とそれに伴う氾濫原(後背湿地)もあり、一般に前者が海岸低地、後者が河川(沖積)低地の特徴である。今回の試掘調査はすべて海岸低地にある低湿地の地形の範囲で実施された。
臨海平野部の地質・地盤構成については、その表層地層はその地形と関連して、上部砂礫層(最上部粘土層と上部砂礫層)と上部粘土層とに区分されている(津市、1980)。しかし、ジオスライサー調査のような詳細な層相を区分したものでなく、今回の調査では、この上部砂礫層に相当する地域と考えられる。
しがしながら、現在の市街地の部分は、ジオスライサー調査からも明白なように、1mほどの盛土など人工改変が進み、平野部の自然状態に近いな地形地質を正確に把握するのは、古い地形図などを利用しないと容易でないところも少なくない。
今回の調査地点は、中世湊を確認することを主目的としているので、微高地(砂州)を避けて、低湿地に出来るだけ限定して実施した。これまでの地形・地質の知見とともに、今回の調査結果を検討すると、(1)今津は、最も海岸よりの堤間湿地で、昭和30年代まで水田であった。試掘の結果、埋め立てられた水田層は、標高で−30cmまでで、その下−1.8mまでは、全体に海浜(前浜)堆積物に、一部に河川堆積の影響をうけた砂礫の集積があったと推定される。その下部は標高−3.2mまでは内湾環境の潟湖、湿原の堆積物であり、水深2mほどの港湾部であった可能性が考えられる。
この−1.8mを境に上下層で、大きな環境変化がどの年代なのか確定できないが、明応地震以後に中世湊が消滅した事実と適合するように思われる。この環境変化は、内湾が海浜へと変化したもので、海面変化が起こらないとすれば、内湾と外洋を境して形成していた堤防状の細長い砂州や砂嘴が破壊され、消滅した現象を考えられる。となれば、明応地震による津波で、内湾の前の砂州(安濃松原と推察される)が消された結果では、なかろうか。なお、明確な内湾層を侵食や削り込むような津波層は、この地点では確認されないが、この境界部の直上の層相は津波による潟などの埋積による堆積物かもしれない。
結城神社の(3)地点は、砂州の上にあるが、標高1.9mとその盛土量の約1.5mを考えると、周囲にある水田面と同じく現海浜に近い。前記した(1)−Aサンプルと(3)結城神社のそれを比較すると、両者ともに上下層に大別され、下部の内湾環境から上部に海浜・前浜環境に変化した共通の特徴が認められる。標高で−1.1m以下が下部層の内湾性の堆積物であるから、水深1mほどの潟湖が、埋積され海浜に変化したと推定され、(1)今津と同じ環境変化を辿ったようである。
一方、(2)馬池の地点では、堤間湿地に位置するが、サンプルの−150cm(標高約0.5m)を境にして、下部層の海浜環境から、上部に湿地環境へと変化して、前記した(1)(3)の地点とは、逆の環境変化の過程を示している。また、この上下層の境界は、津波による撹乱層の可能性がある。
このように、これら3地点とも、上下層の堆積環境の変化には、海面変化による原因が一般に考えられるが、その場合(1)(3)は海面上昇、(2)は海面低下の要因となる。これが同時代かは不明であるが、もし同時の現象であれば、津波などによる影響で、その環境が大きく変化したと考えるのが、最も矛盾はないように思われる。
また海岸町での(4)サンプルからは、高田(1999)によれば、明確に津波層が確認されているので、上記の3地点での堆積環境の変化には、海面変動などによるものでなく、津波による地形変化がその堆積場を大きく変えたと推論される。

このように、もしも津波による堆積環境の変化があったとすれば、いつ頃の津波によるものであろうか。安濃津(津市周辺)を襲ったと考えられる歴史津波は、東海・南海沖の巨大地震に伴うもので、永長地震(1096)、明応地震(1498)、慶長地震(1605)、宝永地震(1707)、安政東海地震(1854)などが知られている(渡辺、1985)。
津波高の推定では、明応地震が最大であるが、その災害の状況に関する資料がない。とくに慶長地震以前の被災記録資料はないが、宝永地震(1707)の津市内の被災は、家屋倒壊・損傷551戸、江戸橋が落ち、新田堤が決壊し、高潮が田畑に侵入し、一部砂で埋没した。また堤防決壊 970m、堤防破損 13,260m、筒破損 24、橋破損 6、斜面崩壊 28、家屋倒壊 136戸、家屋半壊 215戸、砂入水押田 2.2ha、汐入田畑 397ha、製塩用薪の流失 3300束であった。また安政東海地震(1854)では、北は長島町から二見までにわたって海岸低地に沿って災害があり、津地内では、家屋倒壊 50戸、半壊・大小破 456戸、津波1m、13戸浸水、浸水(水田) 179.3ha、泥ふき 4.3haであったと報告されている(梅原・西田、1955、三重県亀山測候所、1955、津市、1980)。これら被害状況から、津波の規模、冠水面積などは、宝永地震のほうが、安政東海地震より大きかったことがわかる。
今回の調査地点が、これら津波によって冠水した可能性がどこも強し、噴砂現象もあったことが確認されているが、各地点でどのような堆積作用をもたらしたかは、不明な点が多い。前述のように(4)海岸町では、明白な津波層が認定されし、どの地点も大きな堆積環境の変化を記録して、その要因に津波のよる変化との考えられた。このような地形変化を伴うような環境変化は、今回の調査地点では1回であり、これまでの最大級の津波によるもの考えると、やはり明応地震(1498)の津波による地変と推論されよう。
また、今津@で確認した噴砂構造が、もしこれら地震によるものとすれば、明応地震以降の発生であろう。

中世・安濃津湊の復原


中世の安濃津に関する絵図がないため、その当時の町や湊などの環境を地理的に復原するには、かなり困難である。そのため、さらに考古学的資料が増え、当時の地形環境などを現代の地形や古地図や地形図・航空写真で推定しながら、今回のジオスライサー調査のような表層地質の広範な解明から、推定する方法がもっとも有効であると思われる。
この中世・安濃津の地形復原のためには、その後の地形改変を詳細に検討する必要がある。とくに安濃津城建設(1558年以降)や近世城下町形成から現代までの土地改変を江戸期の絵図や明治31年に最初に作成され、その後に修正された地形図類(図 1)、大戦以後に撮影された空中写真類を利用して検討した。
また、これまで作成された地形分類図や地質図、地質ボーリング資料などの調査研究を参考にして、今回のジオスライサーによる地質調査結果に基づいて、中世の安濃津の復原を試み、明応地震以後の地形変化について予察してみたい。
この地形復原のポイントは、当時の海岸線をどこにするかである。次には、安濃川・岩田川などの旧河道と河口位置の特定や変遷である。さらに、集落位置があった砂州(砂堆)の微高地の正確な復原や、干拓や盛土や埋め立てなどによる地形改変である。なお、なお藤堂高虎入府以後の近世城下町以後の都市形成史や災害史などについては、『津市史』などから検討できる部分が多い。
この復原図の作成に関しては、以下のテーマにそって考察したい。

(1) 安濃津の中世湊はどこに

@湊の地形
安濃川などの小規模な三角州性平野の沖積低地に位置する安濃津は、伊勢湾沿岸の海浜部にできた古代からの港湾であるから、地形的には河口部の潟湖に限定される。それは、『津市史』第1巻に記されるように「震災以前の安濃津港は遠く突出した砂堤に抱護された大規模な自然的港湾が、適度の水深を有した天然の良港であったので、この砂堤がその昔安濃松原といって、歌人の賛美の的となった勝景であった。」(7頁)とも表わされる。近世までの湊の地形条件は、鳥羽や的矢などのようなリアス式海岸湾奥の天然良港のほか、伊勢湾のような海浜部では、このような潟湖や河口湊であり(伊藤、1998)、中世には伊勢湾・太平洋海運の中心にあった安濃津(矢田、1998)も、その典型であったと思われる。
この河口部付近に砂嘴や砂州が伸びて海浜・浜堤(この砂堤に相当)をなし、安濃松原があり、かなり人為的に安定化した海岸で、その内側に舟泊りとなる潟湖、天然の良港があったと考えられるが、季節によっては河口ないし湾口が砂で閉塞されたり、高潮・洪水などで河口位置や浜堤の松原の変化もあったと思われる。

A安濃川・岩田川の流路・河口
中世までの安濃川などの河口あるいは湾口の位置を特定することが、海岸線位置の確定と合わせて、第一の課題である。今日、安濃川(塔世川)の河口が、志登茂川(部田川)とならんで、松本崎に確定したのは、寛政年間(1789〜1800)の松本崎新田(現在の両河口間にある低湿地)の建設にともなう塔世川下流の疎通工事の完成や、同時期の岩田川港口の開発整備や海岸堤防の建設であり、それ以前は岩田川以北から中河原一帯は、葦原などの低湿地であった(梅原・西田、1954)。
現在の安濃川は、図1のようにJR鉄橋を境にして、上流は自然堤防を河岸に蛇行河川の形態で、ほぼ自然の河川と見られるのに対し、下流側では北東方向に向きを変え、ほぼ直線に近い形態で、松本崎の河口まで連続する。この最下流部は、河岸に自然堤防の発達が悪く、また直線状から、前述のように松本崎新田以降の人工的な流路と考えられる。
旧地形図(図 1)から明らかなように、安濃川右岸から中河原、贄崎(現岩田川河口)に現海岸線に斜交するように分布する、一連の砂地の微高地がある。その一部は砂州の可能性もあるが、自然堤防との複合と思われ、安濃川旧河道がそれと乙部の微高地との間にあったことを暗示させる。寛政年間(1800年前後)の塔世川下流の疎通工事までは、おそらく、このルートが安濃川の分流ともなっていたと思われる。また、海岸町(4)サンプルの津波層上部の氾濫原堆積物は、その安濃川の旧流路によるものかもしれない。
JR鉄橋のすぐ西側は旧古川村(現古河町)と呼ばれ、以前に安濃川が今より南側(右岸側)にあったといわれ、また津城の北堀や南堀の両外堀とも旧安濃川流路を利用したといわれる。とくに南堀は、『三重県の地名』の「南堀端」項で、「中世には、安濃川の分流が、刑部村、古川村を経て、斜めに後ろの南外堀を流れ鰡堀付近で岩田川と合流していた」として(平松、1983)、安濃川の分流(主流か)が今の岩田川となっていたようだ。

現在の岩田川河口は、この平野一帯の中では沖積層の厚さが最大であり、約25m以上30m未満に達する。その20m以上の層厚分布の等値線(津市、1980の図5)が、河口から上記の南堀、古川村の旧安濃川の流路をほぼ一致しているから、縄文海進以前から安濃川の本流は、津城築城以前まで、このルートにあったと推定される。

B中世期の旧海岸線はどこに
旧海岸線は、中世から現代までほとんど海面の変動がないと仮定できるから、上流からの土砂供給による海側への前進や、津波・高潮などの侵食による後退、さらには自然植被や人為的植林などによる海浜固定化が進んだものである。寛政年間(1800年前後)の岩田川の河口整備、松本崎新田、塔世川下流の疎通工事などと関連し、現海岸線が、堤防を築き植栽などで固定化されたようである(梅原・西田、1954、鈴木、1998)。
しかし条里土地制の範囲から、奈良時代の旧海岸線の位置を復原する方法がある(谷岡、1964)。この地域の条里構造は、図1の明治31年版地形図の一部に示されているように、津城跡西側の水田や町並み(八町)の道路からも明瞭に確認できる。津城の掘割や一部の町割もこの条里と同じ方位(N10°E、北から10度東の方向)をとることが、これを基準線にしたものである。
この条里の北西端に中河原を含む一条一塔世里があり、その北西端が、ほぼ現海岸線に位置している(弥永・谷岡、1979)ので、古代からほぼ現海岸線と同じ位置にあった推定される。現志登茂川河口以北の海岸線が、砂州となっており、河口以南に直線状に連続することから、古代から海岸線位置は、ほとんど変化しなかったと考えられる。 すなわち、安濃津の湊を囲むように、海側にあった堤防状の砂嘴(安濃松原)の海岸線は、ほぼ現在の位置にあったと推論できる。

(2)安濃津消滅は明応地震の陥没か、津波か

中世・安濃津の消滅に関して、『津市史』第1巻での「津港陥没」では、「これ(注・安濃松原)が、震災のために全部海中に没し、その上海岸一帯の軟弱な新地層も又共に陥没してしまったのである。」(7頁)として、地盤が陥没による湊が松原ともに海中に消えたと推論した(梅原・西田、1954)。そのため、安濃松原や湊の潟湖が、現海岸線の沖側にあったと、『津市史』同様に考えられてきた(磯部、1984、鈴木、1998)。
今回の3地点のサンプルから、津波堆積物は確認されなかったが、海岸町(4)の地点からは、明確な津波層が発見されている。時代はまだ不祥だが、この明応地震の可能性が高い。そして、陥没や地滑り状の撹乱堆積物は、どのサンプルや、柳山の遺跡断面などからは、全く確認されなかった。
また今津(1)の地点標高−1.8m、結城神社(3)の標高−1.1mで、内湾環境から海浜環境に変化したことが共通して認められた。この環境変化の要因は、沖側の安濃松原のような堤防状の砂嘴が消失したためと思われ、単に陥没より大きな津波で破壊され、潟湖が海浜化されものと推論される。
この二地点は、その内湾環境の当時には水深が約1〜2mあったため、そこの泥や細砂の直上に、粗粒化した砂層が津波によって堆積したものであろう。津波により安濃松原、潟湖、砂州上の町並みなどの多くが流失し、海浜がこの砂州近くにも迫ったため、全体に「陥没」したように誤解されたためと考えられる。
さらに安濃津柳山遺跡のように町並みの消失や『宗長手記』(1523)の記述をみるかぎり、この海岸部が、地震で下方に沈下したり、海側に地滑りして消失したものでなく、津波による原因が主体であったと考えるのが適当であろう。

(3 )湊の範囲は

前記してきたように、安濃津の湊は、現岩田川付近にあった安濃川河口の潟湖にあったし、当時の海岸線もほぼ現在と同じ位置にあり、そこが安濃松原であったと推定した。松原の切れ目である湾口の位置に関しては、海岸町サンプルの津波層の存在から、この地点が、他のサンプル地点に比べ、津波による侵食もあるから、湾口から津波が直接にあたる位置にあったとすると、現岩田川河口か、わずかその北側に湾入口があったと予想される。
明治期の旧地形図でも明らかなように、乙部の微高地南側の岩田川左岸に低湿地が、旧安濃川河口かその潟湖であった。今津(1)サンプルからも、水深2mほどの潟湖があったことが確かめられたし、柳山遺跡のすぐ東側に位置することから、この袋状の潟(のちの湊田)が湊の一部の可能性がある。
また、旧地形図からも判明するように、柳山と岩田の砂州・微高地の間に広い低湿地が袋状に分布するが、江戸初期に建設された堀川の船泊りの南側であるから、ここまで潟湖の湊があったとも考えられ、今後の試掘による確認が望まれる所である。
七里(1992)は、小字地名をもとにして、現阿漕駅の東に、「漕」、「入江」、「化粧」などがあり、現岩田の微高地に町並みがあり、八幡神社(結城神社のとなり)の東側の海岸近くにある「本口」あるので、そこが湾口と推定し、そこから「入江」「漕」が、安濃津の湊と考察した。これら地名が、中世以前かの確証が明らかでないで不明だが、示唆にとむ提案である。
今回の結城神社のサンプルでも、水深1mほどの潟湖があり、この南に藤方(藤潟)の地名のように、この南側にも広い潟湖があったが、ここと柳山や岩田の町並み近くの湊と連結していたかは、現段階では判断できないが、水路がこの低湿地にもあった可能性は十分考えられる。今後さらに、広範囲の試掘調査が進展すれば、安濃津湊の復原像が確かなものになろう。
以上のような検討を踏まえて、図5に中世・安濃津の復原を試みた結果を提示した。


参考文献

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出典:http://www.the-tirasi.com/tsunohon/back%23_Folder/syousai_Folder/anotsu20.html