別冊:安濃津港研究 1998年6月

●表紙絵は真如堂絵巻より
(安濃津丸のモデルの日明交易船)
巻頭言「温故」、そして「知新」の中から・近藤康雄

安濃津港とは=津のほん29号から
津が津であることの証こその安濃津港。
津のルーツを発掘しよう。=目崎茂和

●津のルーツを探る会[勉強会の記録]
日本三津に関する資料の研究=稲本紀昭
「中世の津」=萱室康光
「中世の港町再現」=佐藤昭嗣
安濃津と神宮=八幡崇経

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「安濃津はどんな港町だったのか」=伊藤裕偉
安濃津柳山遺跡「発掘現場より」
研究「安濃の松原、安濃津の沈没について」=磯部 克
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われら海の子、港の子
さすらい人の見た市民運動=松宮健二
「丁綱」の驚き=高橋俊雄
3月31日・試掘予備調査の報告=羽津本真知子
中世後半の安濃津探し、その街と港とは=大川吉崇
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安濃津姿探し資料抜粋集
子供たちへ、ふるさとへの案内板
   〜あとがきにかえて〜=村山武久

 「安濃津港」とは、現在の岩田川河口付近に中世まであったとされる港です。
 1498年、明応の地震によって大きな被害に遭い、地形の変化によって完全にその機能を失ったとされますが、歴史的資料がほとんどなく、その場所はもちろん、規模も全く不明です。「津のルーツを探る会」は、その港を一般市民、さらには周辺の人達にもイメージできるものにしたいと考え、発足しました。1995年秋のことです。

津が津であるということ

 このグループの中核は、1983年創刊の、郷土誌「津のほん」を作り続けてきた人達です。その「津のほん」で「安濃津港を探る」(1989年6月号)という特集をしたことがあり、以来、年に数回15〜20数人が集まる「飲み会」では常に話題にあがり、「津のほん」の人達の気になるテーマでもありました。
 中でも三重大学人文学部教授・目崎茂和さんは強力な「掘って見ようよ」推進論者で、海洋地理の調査等で世界の国々、港町を回るうち、居ても立っても居られなくなったらしく、ニュージーランドから「壊滅五百年は三年後、さあー掘ろう!」なんていうFAXを編集室に送りつけてくるほどの熱の入れようでありました。
 「津のほん」は津をふるさととし、そこをよく知ることにより、より愛着を持って暮らすための雑誌であり続けてきました。特集のテーマは、私たちの住む場所の「暮らし」「歴史」「言葉」であり、「日常の記録」であります。つまり、ふるさとのアイデンティティーの確認であり、「安濃津」という港は津が津であるということの欠かすことの出来ない捜し物であったわけです。
 そういう背景の中から「津のルーツを探る会」が出来、勉強会が始まりました。会員として62名が集まりました。
 この勉強会の記録は「津のほん別冊『安濃津港研究』」(1998年6月発行)としてまとめましたので、ここではその概要を紹介させていただきます。

文献に見る安濃津港

 津はそのものずばり「港」という意味の漢字ですが、安濃津という地名が資料上に初めて表れるのは11世紀の末、京都の公家の「中右記」という日記。
 永長元年(1096年)、地震で大津波が起こって安濃津の民家が多数損壊したという記事です。
 それ以後、地震というのは何回もあったのでしょうが、大きな被害というのは明応の地震。とくに明応7年(1498年)8月25日のもので、マグニチュード8.2〜8.4と推測され、たんにエネルギーで比較すると、先の阪神神戸地震の約30倍。浜名湖が海とつながり、伊勢の大湊が6〜8メートル、津でも少なく見積もって3〜4メートルの津波が発生したとされています。三河、駿河、遠江、紀伊から房総一帯も被害を受け、港としては、駿河小川湊、紀伊和田浦、遠江橋本、などが壊滅したとの記録が残されています。しかし安濃津のことは、『後法興院記』の明応七年の条に伝聞として「…伊勢三河駿河伊豆に大津波打ち寄せ…、前代未聞の事也…」と安濃津の具体的な記述はなく、地震後25年、この地を訪れた連歌師・宗長が、「此津十余年以来荒野となりて、四・五千軒の家・堂塔跡のみ。浅茅・蓬(よもぎ)が杣(そま)、誠に鶏犬はみえず、鳴鴉(めいあいからす)だに稀なり。」(宗長手記1523年-『宗長日記』岩波文庫)と残しているのみであります。
 その後、安濃津が現れるのは、16世紀になり、中国の明の時代、和冦に対する対策、貿易相手としての日本への関心が高まり、その課程で、日本に関する記述、本も作られていく中で、胡宋憲という人が書いた『籌海図編(ちゅうかいずへん)』(1561年)があげられます。
 「紀伊の西を伊勢という。
 北は三河、その奥を腰大(よど=大淀か)といい、阿乃奴子という…。」
 この「子」は「ツ」と発音するのでアノノツ、これは明らかに安濃津と考えていいわけで、これが中国の文献に初めて登場する安濃津となります。
 それから『日本風土記』(1591年・候継高著)、あるいは『日本考』。さらにそれは『武備志』(1621年・茅元儀著)に受け継がれていきます。
 共通する内容は、
 「国に三津あり、皆海に通ずる江(いりえ)にして、商船貨物の集聚するところである。西海道には坊津地方があり、江ありて、海に通じ、薩摩州の所属である。花旭塔津(はかたのつ)も江ありて、海に通じて、筑前州の所属である。東海には洞津かある。この国の郷音にては「阿乃次」といふ。津を「次」と呼ぶこと、この類である。江ありて海に通じ、伊勢州の所属にかかる。これら三津は、乃ち人煙輳集の地であり、いづれも各所の蕃に通ずる。商貨(賈)の集まるところである。(中略)三津の中、坊津のみを総路となし、客船の往返には必ず此の地を過ぎる。而して花旭塔津は中津であり、地方広潤、人煙輳集して、商ふもの、物として備らざるはない。洞津は末津であり、その地方、又遠く、山城の京都と相近い、貨物は或るものは備り、或るものは欠き、一致しない。」とあります。
 国内では、明暦二年(1656年))の『勢陽雑記』。
 「……明応年中の地震以前には津町と海との間に古りたる松原有と云、其の松原入江深く船かゝり又往来の便り宜き湊なりけるに地震の時破却して松原と共に跡方もなく湊も遠浅に替り侍ると云々」と書かれてあり、つづいて、天保4年(1833年)の『勢陽五鈴遺響』。
 ここには「勢陽府志云安濃津と海との間に松原ありてこれを安濃松原と云明応七年の大地震に城下も松原も浪の為に沈めり、今詳にするに後土御門天皇明応七年六月十日洪浪に府下の民屋も十九丁許沈没したるは遠江浜松荒井今切の渉に変したると同時なり、或は云万治元年洪波に湮没すと云ふは後人の憶断なり……」、あるいは『勢陽五鈴遺響』(1833年)、『伊勢志略(1984年)、『勢陽考古録』『九田宛堂随筆蘭塵『雑集記』『草蔭冊子』などにも、同じような記述がある。
 しかし、これらはかなり時代が下ってからのものであり、安濃津港の中世までの生き生きとした姿は伝わって来ません。

安濃津の港町の姿


 図は目崎茂和教授の地理的研究成果に依りながら、三重県埋蔵文化財センター学芸員・伊藤裕偉さんが作成した安濃津の港町の復元図です。

 

 安濃川、雲出川の土砂が沿岸流によって、海岸線沿いに堆積し、4条ほどの砂堆となって安濃津の港町を形作っています。砂堆北の安濃川河口部と、砂堆の南に存在していた潟湖“藤潟(ふじかた)”から船舶が進入しているものと考えられます(「安濃津研究の現状と課題」Mie history vol.9)。このタイプの海と平行した内水面に沿って開けた港という情景は、中世の港湾都市に多く見られ、先に記した紀伊和田浦、遠江橋本、駿河小川湊、あるいは津軽の十三湊(とさみなと)を代表とする加賀、越後などの日本海沿岸にも多く見られる情景だそうです。
 この砂堆の内陸寄りから数えて2条目の中心部、柳山津興地内の津実業高校(現三重夢学園)敷地内で行われた「安濃津柳山遺跡」発掘調査(1996年・三重県埋蔵文化財センター・主任学芸員伊藤裕偉氏)では、いにしえの安濃津を彷彿とさせる数々の遺構・遺物が確認されました。その詳細は同センター発行の報告書によっていただくとして、二つの興味深い事例を紹介します。
 一つは、十三世紀中頃の山茶椀と俗称されるおびただしい陶器の数々です。山茶椀とは、愛知県瀬戸市や知多半島、渥美半島などで作られる焼き物で安濃津柳山遺跡からの出土品には、そのほとんどが未使用のもので、底部に墨書きされたものがあり、その一つに「丁問」「丁阿」「丁綱」のいずれかと読める文字が書かれていることです。

 このことは愛知県で生産された陶器が、生産地で選別されることなく、安濃津に運ばれ、各地へ出荷されていたことを示すものです。底部に記された墨書について、伊藤裕偉さんは、
 「…「丁問」であれば、安濃津に存在していた「漕丁部」という神宮神人が関わっていた問か、あるいは「丁」という人物の間を指すものと考えられます。問とは、当時の海運業に携わる集団を意味します。「丁阿」であれば、勧進聖などに代表される仏教関係者の関与が想定できます。「丁綱」であれば、問題は少し複雑になります。「丁綱」という墨書は、安濃津と同じく「三津」のひとつとされる博多で、中国から運ばれてきた陶磁器類に数多く確認されています。安濃津の墨書が「丁綱」とすれば、国産の陶器類の流通にさえ中国系の商人が何らかの関与をしていたことになります。墨書の文字がどれなのかは今は断定できませんが、安濃津に存在していた“商人”らしき者を考えるうえで、この墨書土器はとても重要であるといえます。」と述べています。
 もう一つは、十五世紀末頃から十七世紀頃にかけて、遺跡の空白期があることで、このことは、伝えられる明応の震災の復興期に当たることを示しているようで、「十五世紀から十六世紀にかけて、北武蔵から上野の常滑焼きの出土が激滅し、常滑焼きの供給元の港湾都市安濃津の明応地震による壊滅との関係が考えられる」との新潟大学・矢田俊文教授の「明応地震と太平洋海運」(『民衆氏研究』55)と呼応することです。
 一方、先頃発掘された、嬉野町・片部遺跡の「墨書土器」、安濃町・大城遺跡の「刻書土器」等に見られる大陸文化との関係を思わせる事例、あるいは津周辺の遺跡、津市大里窪田町の志登茂川右岸斜面に広がる「六大A遺跡」、雲出島貫遺跡の「古墳墳丘」等々、そこから安濃川、雲出川を遡る文化交流拠点としての弥生時代から連綿と続く「安濃津」の存在が浮かび上がってきます。

地名で探る安濃津港

 安濃津がかって港町であったことを示唆する一つの手がかりとして、土地区画と地名があります。
 安濃津は明応の震災後、港町はかなり復興したとの形跡はあるようですが、その消滅に関してもう一つの要因として、近世津城下町の成立があげられますが、その土地区画は中世と近世でほとんど一致しているところが多く、その一つが、津興周辺の西来寺址であり、上宮寺址(現在の阿漕塚)などがあり、また藩政時代の『津興故地図』によると、津興では「観音」「大門」「中の番」「宿屋」の字名が現在の市街地のそれと同じ順序に並んでいます。そこから南へ「入江」。阿漕浦海岸には「元口」と呼ばれる地区があって、今の結城神社の近くであるらしく、そのまた南、米津の集落に「焼出里」と刻まれた碑があります。
 「焼出」とは「焼田」が変化したもので、つまり製塩の塩を焼くための塩田、のちに「焼」は「八木」になり「八木」という字が組み合わさって「米」になり、「米田」が「米津」ということになったという説があります。
 「藤方」ももちろん「藤潟」。「津興」はそのまま津が興った中心であるという。
 こんなこともいにしえの安濃津を探るヒントになるようです。

 勉強会は、日本三津に関する資料の研究」(稲本紀昭・1995年12月)にはじまり、「津市埋蔵文化財センター見学と阿漕浦散策」「安濃津港発掘に向けて」(目崎茂和)「中世の津」(津市文化課・萱室康光)「中世の港町再現」(広島県立歴史博物館・佐藤昭嗣)「伊勢神宮と安濃津」(神宮司庁遷宮調査室・八幡宗経)などを行ってきました。

発掘への試み

 しかしながら、勉強会を重ねれば重ねるほど、実際に安濃津港を掘り起こしてみたいという欲求は深まるばかりです。
 とにかく掘ってみようと言うことになり、目崎教授のつながりから、広島大学の活断層調査の権威、中田高教授の指導の下、1998年3月31日、「津のルーツを探る会」の会員の方から提供のあった二か所で試掘を行いました。一つは図-1の柳山遺跡の東の★印の停泊地候補地、もう一カ所は、「馬池」と呼ばれる湿地帯。
 方法は、まず1メートルほど表面の土を掘り、中田教授が開発されたジオスライサーという装置を使ってのもので、「コ」の字型の長さ4メートルの畳状のステンレス製の矢板をバイブルハンマーで打ち込み、「コ」の字の開いた部分に蓋となるもう一枚の矢板を打ち込み、地層を崩さずに引き抜くというもの。
 最初に行われた★印の場所では、4メートルほどのところに黒っぽい泥層があり、その上に茶色い目の粗さが異なる砂の層が4、5層重なっている。
 一番下の層は、もともとの海底のヘドロ層(還元された土)で、砂の層はその上に流入した川砂の酸化層。
 泥層の部分に小さい木片のようなものが見られ、取り囲んだルーツの会会員の「船」という期待をよそに、呼び寄せた考古学の学芸員の一言は「葦か何かの植物じゃないかな…」。
 しかし大きな成果は、砂層の中にあきらかに地震によると見られる液化状現象によっておきる噴砂の跡があり、地層の深さから江戸時代のどれかの地震と推定されるとのことですが、これは世界的に見ても珍しい標本だそうです。
 こうした現地での試掘を重ね、地層や遺物の調査をすることにより、かっての安濃津の地形、町の姿が浮かび上がり、港も見えてくると考えます。が、いかんせん、一般市民の団体がこのような調査を続けることはかなりの困難がつきまといます。掘る場所、人と費用、抜き取った地層の分析・検討・保存などです。
 しかし、一番重要な活動であるとの確信を深くしました。
(ジオスライサーによる試掘調査の報告は「別冊:津のほん『安濃津物語』のページで紹介してあります)

安濃津物語実行委員会の発足

 試掘の実行を検討しだした頃から、市民団体単体での活動には限界があるように感じ、津市に対して協力をお願いすることにしました。
 第一のもくろみは、試掘に公共の場所を使わせていただけること、第二には、研究機関や市の学芸員の協力をお願いすること、出来れば予算としてお金の面でもバックアップしていただけないかと考えました。
 幸いなことに津市としてはもっとふくらまして受け止めていただき、かっての安濃津という地域としてとらえ、安濃町、嬉野町とともに津のルーツを探る会と四者による「安濃津物語実行委員会」(設立総会1998年5月15日)の発足を見ることが出来ました。この四者の共通の認識として、
 「明応の地震から500年を節目に、郷土の起源や成長を見つめながら、安濃津が育んできた歴史や文化を共通の文化遺産として認識し、文化の町づくりとすすめていくため、国、県、広域市町村、そして三重大学の協力の下、各般に渉る事業を展開していこう…」というものです。
 事業は6月26日の記念講演会「海の道・陸の道・文化の道」を皮切りに市民講座、シンポジウム、特別展、さらにはルーツを訪ねるバスツアー、同じ明応の地震により海とつながった浜名湖の「開湖500年フェスティバル」への参加、県消防防災課主催の「明応大地震メモリアルカンファレンス」に至るまで様々なイベントが行われました。「津のルーツを探る会」としては、これらの事業への積極的な下働きと参加の呼びかけ、先の試掘に加え、さらに二カ所の「地層抜き取り調査」、養生健康公園での「市民参加による遺跡の発掘体験会」(1998年7月20日)を実施しました。(別冊:津のほん『安濃津物語』をごらん下さい)

夢でなく現の物語として


 「津のルーツを探る会」が安濃津の港を探すことを具体的にめざして3年。正直な感想を言いますと、その姿はまだまだ見えてきていないと言うことです。
 活動を経験して感じたことは、遠いところからのメッセージは極めて微かに、密やかに、耳をじっとすまして、はじめてその一部が聞こえてくるということです。そこからは根気と気の遠くなるような長い継続の積み重ねがあってこそ事実が浮かび上がってくるように思いました。
 安濃津港の再現、つまり私たちのご先祖探しは、いまそのプロローグが始まったばかり、「物語はこれからだっ」という気がします。

 ところで、私たちが(私が?)「津を探そう」と思い立ったのは、一つの思いがありました。
 ちょっと気どった言い方で面はゆいのですが、「我々はどこから来たのか、何者か、どこへ行こうとしているのか」という思いです。
 私たちはいま、現役のバトンランナーとして走っているのですが、そのバトンは誰から受け取ったものなのか、そのバトンとは何なのか、誰にどんなふうに渡そうとしているのか、という疑問です。現実に見ることの出来るのは「来し方」の事実しか有りませんが、それをしっかり見つめ、確かめることによって、「行く末」が見えてくるのではないかという思いです。
 私たちの住むかって安濃津と呼ばれた地域において、いまだ「来し方」が実感として見ることが出来ず、「ここはどこ?わたしはだれ?」という現状のような気がしてならないのです。
 さまざまな催し物をすると、参加して下さる方の数、その熱心なまなざしに圧倒されるような思いをいたします。

 「ふるさとを訪ねる旅は、心の忘れ物を探しに帰る旅」であり、そのためには、忘れ物を見つけることの出来る場所、もう勝手に名前を付けてみました。『安濃津歴史博物館』。伊勢湾西岸中央部の「来し方」の現の物語が見える場所です。
 ですが、肝心の中身、未だ捜査途中です。力をお貸し下さい。
 ─津のルーツを探る会:村山武久・記(「あすの三重111号 1998・秋季所収)─

出典:http://www.the-tirasi.com/tsunohon/back%23_Folder/syousai_Folder/anotsu10.html