唐人踊りの起源についての考察
唐人踊りは1636年に藤堂高次の命により津八幡宮祭礼の一部として始められたとされています。 ただ、その当時から現在のような唐人衣装を着た姿であったのかどうかについては確認されていません。 石水美術館所蔵の幕末の祭礼絵巻には現在の姿とほとんど変わらない唐人行列が描かれているので、少なくとも その頃には朝鮮通信使を意識した行列として位置づけられていたことがわかります。 ところが、ニョーヨークのパプリックライブラリーに所蔵される 「勢州一志郡八幡宮祭礼」絵巻では、南蛮人の衣装を身につけた唐人行列が描かれています。 この絵巻は江戸時代初期のものとされますが、正確な作成年が不明であるため、いつの時点でこのような唐人の姿になっていたのかも不明です。 ことによると唐人行列の最初の姿が南蛮風だった可能性もあり、唐人踊りの起源そのものに関わる大きな謎を残す事になりました。 この問題につき、いくつかの手がかりから、考察を試みてみました。 まず、唐人行列が作られた頃の年表を見てみましょう。 |
1607 | 第1回朝鮮通信使(回答兼刷還使)来日 |
1617 | 第2回朝鮮通信使(回答兼刷還使)来日 |
1623 | イギリスとの通商が断絶 |
1624 | スペインとの通商が断絶 第3回朝鮮通信使(回答兼刷還使)来日 |
1630 | 藤堂高虎死去 |
1635 | 日本人の海外渡航と在外日本人の帰国を全面的に禁止 |
1636 | 津八幡宮祭礼始まる(唐人行列の始まり) 第4回朝鮮通信使来日 |
1637 | 島原の乱 |
1639 | 出島のポルトガル人を追放、鎖国の完成 |
1641 | オランダ商館が平戸から出島へ移される |
1643 | 第5回朝鮮通信使来日 |
1655 | 第6回朝鮮通信使来日 |
以上のように、唐人行列が創設された1636年というのは、日本が鎖国体制を確立しつつある只中であり、
特に南蛮人の取り扱いについて非常に微妙な時期であったことがわかります。そして1639年に鎖国が完成
した後、南蛮風の文物は完全に禁圧されたはずですから、「勢州一志郡八幡宮祭礼」絵巻に見られるような
衣装を身につけて城下を練り歩くなどということは到底不可能であったと思われます。 ということは、唐人行列の一番最初の姿は南蛮風のものであり、鎖国の完成以後、全く異なる姿に 改められたのではないでしょうか? ではいつから朝鮮通信使の姿になったのでしょうか?これは上記年表を見ると想像出来るのではないかと思います。 1607年に第1回の朝鮮通信使(回答兼刷還使)が派遣されて以来、1811年まで合計12回の朝鮮通信使が 来日しました。そのうち第6回までが最初の50年間に来日しています。この時期はまさに「朝鮮通信使ブーム」と いってよい状況だったと言えるでしょう。 禁止された南蛮風行列の代わりとして、当時ブームだった朝鮮通信使行列が選ばれたと考えるのが自然ではないかと思われます。 つまり、「勢州一志郡八幡宮祭礼」絵巻に見られる南蛮風の姿は、唐人行列が創設されてから最初の3年間だけの姿を描いたものと考えるわけです。 もう一つ、状況証拠として考慮してはどうかと思われる材料があります。それは、 現在も唐人さんの衣装を指して使われる『ロッペ』という言葉です。 衣装についてロッペという言い方をする例は、日本では津の唐人踊りに限られ、他にはないようです。 韓国語にもロッペという単語は存在しません。 そこで、世界各国語からその語源を探ってみました。 服(clothes)をポルトガル語で"roupa"、 スペイン語で"ropas"といいます。ロッペに非常によく似ていますね。 唐人行列の一番最初の姿がポルトガル風もしくはスペイン風だったからこそ、 朝鮮通信使の姿になった後もロッペという言葉が残ったのでしょう。 これもやはりそう考えるのが自然ではないかと思います。 以上、あくまでもサイト管理者の私見であることをお断りしておきます。 「服」という意味の各国語
|