1582年の本能寺の変で織田信長(1534〜1582)が倒れた後、日本の支配者となった豊臣秀吉(1536〜1598)は次なる目標として明(中国)の征服を決意した。十分な海軍力を持たない秀吉は、朝鮮半島を通り陸路明に侵攻する計画を立てて、そのために李氏朝鮮を日本に服属させる交渉を側近の小西行長(?〜1600)と対馬の宗義智(1568〜1615)に命じた。当時、明の冊封体制下にあった朝鮮との交渉が決裂すると秀吉は1591年8月「唐入り」を宣言し、一番隊から九番隊まで総勢15万8800人からなる朝鮮出兵の軍勢を編成した。
1592年4月12日、小西行長率いる一番隊1万8700が釜山浦に上陸した。戦国の世に鍛えられ多数の火縄銃を装備した日本軍は、その日の内に釜山城を攻略すると北上を開始した。朝鮮は急遽8000の兵を編成し忠州で日本軍を迎え撃つが、1592年4月27日、鉄砲隊の一斉射撃の前に壊滅してしまう。
忠州での朝鮮軍大敗の報が届くと朝鮮国王は首都漢城を放棄して平壌に移り、1592年5月1日、小西行長率いる一番隊は漢城を無血で占領する。その他の部隊もすぐ後に続き、4月17日に釜山浦に上陸した加藤清正(1562〜1611)率いる二番隊も5月3日に漢城に入城し、5月8日までに八番隊までが漢城入城を果たした。
ここで日本軍は会議を開き、朝鮮八道を分担し統治することを決定する。平安道担当の一番隊は6月16日に平壌を占領し、朝鮮国王はさらに鴨緑江方面へと逃れた。一方、二番隊は咸鏡道に進軍し、同地に避難していた朝鮮国王の王子二人を捕虜にした。
陸上では破竹の進撃を続ける日本軍であったが、海上では朝鮮水軍の前に苦戦していた。名将李舜臣(1545〜1598)率いる朝鮮水軍は、1592年5月2日に玉浦沖で、29日には泗川浦で日本水軍を撃破した。秀吉は脇坂安治(1554〜1626)・九鬼嘉隆(1542〜1600)・加藤嘉明(1563〜1631)の三水軍将に海上の警固を命じたが、7月7日、閑山島付近で91隻の朝鮮水軍に遭遇した脇坂艦隊73隻が惨敗を喫し、さらに救援に駆けつけた九鬼・加藤艦隊も大打撃を受けた。そのため秀吉は日本水軍に対し、朝鮮水軍との戦闘と避けるように指示を出さざるえなかった。
制海権を失った日本軍は漢城・平壌へ海路兵糧を輸送する事が不可能になり、そのうえ陸上でも各地で決起した義兵がゲリラ戦を展開したため、日本軍の物資の輸送路は寸断されていた。日本軍は朝鮮半島南部支配を確保するため、1592年10月4日、細川忠興(1563〜1645)率いる2万の軍勢で晋州城を包囲した。しかし籠城する3800の朝鮮軍の激しい抵抗に加え全羅道義兵2000が背後から日本軍を牽制したため攻略に失敗し、10月10日、晋州城から撤退した。
朝鮮国王からの援軍要請を受けた明は祖承訓率いる5000の援軍を朝鮮へ派遣するが、この部隊は平壌の小西行長の反撃を受け壊滅した。事態を重く見た明はひとまず日本軍と停戦協定を結び、その間に李如松(?〜1598)を提督する4万3000の軍勢を編成した。1592年12月23日に鴨緑江を渡り朝鮮入りした李如松はさらに朝鮮軍1万を加え、1593年1月5日、平壌を包囲した。不意を突かれた小西行長率いる日本軍1万5000は、1月7日の総攻撃で平壌城外壁を明軍に突破され漢城へ退却した。
1593年1月26日、漢城攻略を目指し南下する明軍2万を宇喜多秀家(1572〜1655)を総大将とする日本軍4万1000が漢城城外の碧蹄館で迎撃した。この戦いで騎馬を主力とする明軍は日本軍の鉄砲隊の前に大敗を喫した。
碧蹄館の敗戦以後、李如松は戦意を失い積極的な攻勢に出ようとはしなくなる。一方の日本軍も1593年2月12日に幸州山城の攻略に失敗し、また兵站の不足にも悩まされていた。そのため、明軍と日本軍の間で講和が締結され、1593年4月18日に日本軍は漢城から撤退した。