「美しい出会い−海東にて最初の国際結婚」

領事 孫治根

2003年9月24日開催された伽耶史を扱った歴史座談会の場で私は、質問をしようと心に決めて手をあげようとしたが、 歴史の共通認識の問題が出たらと、手が上がらなくて何回もためらって結局やめた。急に8年前の記憶が蘇ったからだ。
1995年末、ワールドカップの共同開催が決定され、やや過ぎて私は、埼玉県にある平成国際大学のシンポジウムに参加することになった。 パネル討議後、急にフロアのある市民から次のような質問を受けた。「韓日歴史認識について村山総理が言及したことは社会主義者の言葉であったし、 当時、歴史の共同研究に関する言及があったが、自分は、もし本当に未来志向的に考えようとするならば、歴史観の共有だという幻想は 捨てなければならないと思う。また、主権国家である各国は、固有の歴史観があるのではないか?すなわち、自由主義国家にて 歴史観は自由であり、政府が主導する立場でその歴史の共同研究をすることは、とても危険なことだと思う。あなたはどう思いますか?」 というとても難しい質問に対し、私はヨーロッパの共同歴史教科書の編纂に例えながら、やっとの思いで返答したことがあるが、いまだにその質問は 私の脳裏に残っている。
ところがこの日、伽耶の最後の王子である月光の話を映像で見た後、私たち歴史座談会の会員らの意見交換を見守り、ワールドカップ以前のシンポジウム とはあまりにも変わった雰囲気に、今更ながら驚かざるを得なかった。2年近くに及ぶ歴史座談会を通じて、こんなに私たち会員らの 歴史認識は成熟し、その結果、このように韓日歴史の共通認識の基盤が育まれていくのではないだろうかと思えてならない。 今まで活発な討論のために、座談会が開かれる度、少し筒問題提起をしてきた私だが、その日だけは発言をやめた。何故ならば、 任那日本府という敏感な問題に、感情的な私の発言が、誤解を生むおそれがあり、良い雰囲気に水を差したくなかったからだった。
しかし、私はその席では話すことができなかったが、私たち歴史座談会員には必ず聞かせたい話がある。本当に伽耶史は、韓日関係の歴史 の正しい認識のために外すことができないからだ。それは隣国である韓日では気まずく、ぎごちない存在で映られた伽耶史が、はるか遠く インドを訪問した時、私は初めて会ったインド人から伽耶とインドの美しい出会いの話を聞いてすぐ、親熟な関係で発展して行くのを見て、 今更驚かざるを得なかった。
2000年前の神話のような歴史的な話一つで、初対面の私たち二人は自然に対話を発展させることができたし、 現在の韓国とインドの関係発展の速度と、このような歴史的な話と無関係ではないと思えたからである。 今日はその美しい出会いの話を紹介しようと思う。

<三国遺事>に書かれた<駕洛国記>が伝えるところによれば、伽耶国の始祖である金首露王は、6個の黄金卵の中で頭を 初めて出したということで、名前を「首露」とし、姓を「金氏」とした。そして国を建て、国名を「駕洛」または「伽耶」として、 その時を「6伽耶連盟」時代の始まりとした。これがいわゆる伽耶国始祖の「天降卵生」神話である。
古代国家では始祖を「卵生説」の説話とする例は珍しいことではないが、問題はその次である。このように王位に上がった後、 臣下らが王をお伺いしながら王妃を決めるよう勧めると、首露王は「私がここに降臨したことも天からの命であった。よって、王妃も 天がお決め下さるはずであるから心配るではない。」と言った。そうしたある日、王は急に家臣達に小さな船と馬を準備させ、 望山島というところに赴き、お客様を迎える準備をするように言った。やがて長い旗を翻す赤い帆の変わった帆船が近付いてきた。 その中には常凡ではない人20人余りが乗っていた。連絡を受けた王は、「さあ、私はこの時を待っていたのだ。天がお決めになった 私の妃が来たのだから、はやく赴き丁重に仕えよ。」と言った。
かくして臣下たちがその一行に仕え、大闕に入ろうとした時、姫様がおっしゃるには、「私とそなた達は、初対面であるのにどうして 軽々しくついて行けようか」とおっしゃった。この言葉を聞いて大王もそのとおりであると考え、自ら臨時の宮闕を作り一行を迎える 準備をした。
許黄玉はこの時、綾?で着ていた絹ズボンを脱ぎ、山神に礼物を捧げる儀式を行い、王の持つ帳幕宮殿に赴き、王と対面することとなった。 そして「私は太陽王朝の阿踰陀国の姫、許黄玉と申します。歳は16歳です。私が本国にいる時、父王と母后がおっしゃるには、夜、夢で天の上帝 にお目にかかったところ、伽耶国王は天より舞い降りた神聖な人物であるから、姫を送り妃とするようにしなさいとおっしゃられました。私は父母様 の言い付けどおり船に乗り、あなた様にお目にかかることとなりました。」と言った。
上の逸話は、まことに幻想的な一面を持つドラマチックなロマンスであるといえるが、私たちは現在各界で関心を持たれているその国が、 まさにインドのアヨーディヤであることを意識してみる必要がある。この仮説の根拠の核心は、首露王陵である納陵や、崇善殿で見られる 「双魚門」と「太陽門」、そしてインド式「ストゥパ」塔にある。仏教と伽耶文化圏外の韓国のどの場所でも発見されていないというこの紋様が、 まさにこの地、アヨーディヤ一帯に本拠を置いた古代王国の王室文章だったということだ。もちろん世界的に魚文様は古代バビロニア、 ローマ、ペルシア、現中国の四川省の安嶽、日本、チベット等の地でもよく発見されているが、金海とアヨーディヤの文様は特に 異彩を帯びている。(伽耶は国を象徴する柄に、二匹の魚が口を向かい合った紋様を作って使う。)
そのほかにも姫が持って来たといわれ、現存する婆婆石塔(婆婆石塔は、紀元後48年に海の風浪を鎮めるために父王が下賜したものであり、 三国遺事で紹介されているこの塔の模様も奇妙だが、石が少し赤い光を放っており、その性質が柔らかいことから、「この国の品物ではない」といわれている。 また、鶏の鶏冠の地を選び埋めれば、他の石は固まるものの、これはそうではないと言及)や、また北方仏教一辺倒だった韓半島に、 唯一伽耶圏の仏教だけは南方仏教の色彩を帯びた点(許皇后の兄といわれる長遊和尚と関係があるとされる金海市長遊面にある興国寺には インドだけに見られる二匹の蛇が仏を護衛している特異な姿が残っている巳王石がある)、そして伽耶国の支配階級の言語だった と推定される慶尚南道の一部方言が、インドの古代ドラビダ語とあまりにも酷似している点等でも許黄玉の故郷がインドであると推定できる根拠 として提示されている。
一つ例を挙げるとすれば、「伽耶」(Kaya:新ドラビダ語)、「駕洛」(Karak:旧ドラビダ語)という単語はドラビダ語で「魚」を意味するということなどだ。 そうであるとしても問題は、幼い姫がどんな経路といかなる理由で、はるか遠い韓半島まで来るようになったのかということに対する補充根拠である。
これに関する仮説は大概ふたつに割れている。すなわち船を利用していんどから直に渡って来たという説と、アヨーディヤに本拠を置いた 王国が滅亡する時、逃れようとした人々がまず中国の普州(現四川省揚子江流域の安嶽:今も許氏が集成村を形成して暮らしている)に定着し、 また追い出される立場になり、海流に沿って身を隠す旅に出た後、南海に到着したという説である。
<駕洛国記>の記録が間違いなとすれば、伽耶には中国より先に海洋を通じ、南方仏教が入って来たことになる。上の記録には様々な 潤色があり、そうではないとしても、4世紀後半の仏教伝来よりもずっと以前に伽耶地域に仏教が入って来たといえる。 そうしたところで結局は、4−5世紀の仏教の本格的な伝来といっしょに伽耶は新羅に併合されるなど、衰落の道を行くことになったのだ。 たぶん歴史の妙味はそういう屈曲にあろう。
とにかく伽耶史は、最近韓国で再び脚光を浴びており、釜山アジア大会開会式の主題も「美しい出会い」であった。伽耶国の金首露王と 許黄玉の出会いをダイナミックに再現し、全アジアの人々の出会いを記念して「希望と跳躍」を象徴しながら新しいアジアに向けて進むよう 願う気持ちで選ばれたのであろう。
たとえ駕洛国の興亡は、ベールに隠されたまま今日に至っても、より密接な関係を持った日本列島との関係では、より一層多くのこのような 美しい出会いがあったであろうと確信する。
私たちの歴史座談会がより待ち遠しく思う。