講演の中で、森川先生は、「あまり知られていないが、是非、考えてもらいたい問題が、私たちのこんなに近くに存在する。できるだけ早くに、当時を知っておられる方に、もっと聞き取りをして、記録として残していかなくては、忘れ去られてしまうし、誰も当時のことを知らない日が来てしまう。みなさん、聞き取りへのアクションを起こしませんか」と言われました。
その当時の私は、「この聞き取り活動に参加し、歴史を語り継がなくてはいけない」と強く思ったのですが、3年生の進路指導担当をしていたこともあり、忙しいという理由で、自分から聞き取りに動こうとしませんでした。極端に言えば、「自分がやらなくても、誰かやってくれるだろう」という、他人任せの考えでした。忙しいということを口実に、この重要な問題から、自ら逃げたのでした。
2. 2002年「日韓国民交流年」「全外教三重県大会開催」
森川先生のお話を聞かせていただいたときに、取り組むべき重要な問題から逃げてしまった私は、旧青山トンネルの存在自体も、いつしか記憶の中から消え去り、数年が経ちました。
2002年度が始まり、私は、校内の人権・同和教育推進担当になりました。このことは、それまで数年間続けて、進路指導担当をしていた私にとって、様々な、過去の反省すべき点、改めなければいけない態度を思い出させてくれました。その1つが、この旧青山トンネルのことでした。
2002年は、サッカーワールドカップ日韓(韓日)共催の年でした。人権・同和教育担当となった私は、このことをふまえて、私が発行する、人権を考える通信「さあ、みんなで、考えよう」で取り上げる1つの大きな柱として、日本と朝鮮半島との間の問題を位置づけ、教職員・生徒・保護者が一体となり、今まで以上に深く考えていく絶好の機会だと考えました。 この思いは、その年の5月11日に三重県人権センターで行われた全外教セミナーに参加させていただき、さらに強いものになりました。
このような中、人権を考える通信では、サッカーワールドカップ開催中の6月18日発行の第34号に共催国である韓国に関するクイズを掲載するところから取り組み始めました。その後、1学期中には第2回韓国クイズとその解説、新聞記事を使っての韓国初の関取の話題と、隣町である白山町の石人の郷(石人70体を韓国に返還)の話題を掲載しました
夏休みになり、8月に三重県津市の三重大学で行われた、第23回全外教三重大会に参加させていただきました。23日には、フィールドワークが行われ(私は他の会議と重なり参加できませんでしたが)、フィールドワーク地の中には、白山町の石人の郷と近鉄旧青山トンネル殉職者供養塔も含まれていました。
年度当初に、旧青山トンネルのことを取り組もうという気持ちを思いだした私でしたが、この全外教大会を機に、それが確固たる決意にかわっていきました。
3. 韓久さん(民団三重県地方本部事務局長)との出会い
2002年度の全外教セミナーで、講師をされたのは韓久さんでした。韓久さんについては、その前年に青山町を含む伊賀地域で行われた「人権フォーラムいが」でのパネルディスカッションの1パネラーとしてお話しされたのを聞かせていただいていました。今回の全外教セミナーでは、お話を聞かせていただくだけでなく、学生と一緒にサムルノリの演奏を聞かせていただきました。その演奏が、私の心を動かしました。聞きながら、鳥肌が立ち、自分で自分の心がはっきり動いていることを感じました。旧青山トンネルのことを生徒とともに取り組もうと強く思った要因の1つとして、この全外教セミナーでの韓久さんとの出会い(そのときは、直接会話はさせていただいていませんが)もたいへん大きなものでした。
4. 青山中学校1年生の取り組み概要
青山中学校区には、当時、5つの小学校(2002年段階。現在は統廃合により3小学校)がありました。町に、また、郡に唯一の中学校であり、校区はたいへん広いです。大きな団地あり、複式学級を実施している小学校区ありと、工業、農業、商業、林業と様々な営みが存在します。
このような中、青山中学校では、第一学年次に、人権総合学習のなかで「青山町めぐり」と称して、青山町全体のことを、フィールドワークを実施して、より深く知り、よいところをのばし、また課題を見つけて解決していく取り組みをしています。
5. 2002年度の1年生の取り組み
例年、1年生で行っている「青山町めぐり」ですが、2002年度は、1学期に1回、2学期に1回の計2回行いました。1学期には、出身小学校区以外の地に希望で分かれて、フィールドワークを行い、地域や産業を知るとともに、住民に聞き取りを行い、町内のよいところとともに、課題を見つける旅を行いました。2学期は、1学期に見つけた課題や、さらに深めたい問題をもとに、課題別に8つのコースを設定し、「青山町めぐりPart2」を行いました。
その中の1つに、日韓国民交流年であることと、1学期に紹介した隣町の石人の郷のことをからめ、旧青山トンネルコースを設定しました。このコースには21名の生徒が集まりました。
6. プロジェクトX・旧青山トンネルコースの取り組み
「青山町めぐり」当日までの活動
青山町めぐりPart2における、旧青山トンネルコース21名の生徒による取り組みを紹介します。はじめに取り組み・活動の概要を以下にまとめます。
「青山町めぐり」実施までの活動
1. このコースを選んだ理由を出し合い、学習していく方向性や内容を検討する
2. 北朝鮮拉致問題と小泉首相訪朝時の謝罪の意味を考える
3. 朝鮮半島と日本の歴史を知り、感想を交流する
(ビデオ「キムの十字架」の視聴、豊臣秀吉の時代以降の朝鮮半島と日本の歴史学習)
4. 旧青山トンネル工事の概要を知る
5. 関係史料(町史など)の記述の間違いの発見
6. 聞き取りをさせていただく方や講師への依頼
7. 聞き取り内容の検討と役割分担、および当日の活動内容検討決定
(聞き取りの他に、供養塔、青山高原三角点、旧青山トンネル東口、石人の郷訪問決定)
「青山町めぐりPart2」での参加生徒を募集した時、ちょうど、小泉首相の北朝鮮訪問を機に、拉致問題がクローズアップされている時期でした。新聞や、マスコミでは、拉致問題の北朝鮮の責任等に関する話題が中心で、訪朝時の小泉首相の謝罪記事の扱いは小さく、生徒も大人も含めて、日本側からの謝罪があったこと自体を、ほとんど知らない実態がありました。旧青山トンネルコースに集まった21名の生徒と、まず話し合ったのは、「小泉首相が、謝罪しなければいけない、何を日本はしたのだろうか。」ということでした。旧青山トンネル工事に多くの朝鮮半島からの人々が携わっている背景をまず、考える必要がありました。
そこで、ビデオ「キムの十字架」を視聴し、みんなで感想や思いを出し合いました。視聴直後には、「拉致問題で日本が騒いでいるけど、もっとひどいことを日本がしている」とか、「北朝鮮の拉致の数と日本人の連行した数とは桁が違う」などの意見が出て、あたかも「日本の方が悪い」と、みんな言いたげでした。しかし、ここでどちらが悪いということではなく、今まで行ってきたことでよくないこと、人を傷つけることは、事の大小にかかわらず、それを認めて、お互いに謝るべきではないのかということを確認しあいました。生徒たちは、小泉首相の謝罪の記事がほとんど新聞に出ていないことに不満げでした。
このあと、21人で、朝鮮半島と日本の歴史について、特に豊臣秀吉の朝鮮出兵から太平洋戦争終戦までを学習しました。その中で、生徒たちは、年代から考えて、旧青山トンネル工事に携わった人々は、強制連行ではないものの、土地調査事業などで日本に土地を奪われ、働き口を求めて日本にやって来た人々であると想像していきました。(※旧青山トンネル工事は1928年から1930年まで。土地調査事業1910年〜。強制連行1939年〜)
日本と朝鮮半島との歴史を詳しく知った生徒21人と、次に取り組んだのは、旧青山トンネルについて知ることでした。ここでは、森川先生が調べ、まとめられた資料をもとに、様々な書籍を調べていきました。そして、そこで、生徒たちと発見・確認したのは、町史に書かれた旧青山トンネル工事に関する記載の間違いでした。
「青山町史」では、工事での犠牲者16名の数はあっているのですが、韓国・朝鮮人の労働に関する記述はありませんでした。また、トンネルの一方の出口にあたる隣町の白山町における「三重一志 白山町文化誌」と、その隣町の一志町の「一志町史」には、韓国・朝鮮人労働の記述がないどころか、死者の数は8名と書かれているだけでした。供養塔に刻まれた犠牲者のうち、8名は韓国・朝鮮人の方のお名前であるし、それは、事故当時の調査によっても明らかになっています。しかし、両町史には、8名としか書かれていません。生徒たちは、この数の間違いの原因を「朝鮮半島からの労働者を無視し、日本人の犠牲者数しか記載していない」と予測しました。
このようななか、生徒たちは、自分たちが、過去の歴史、知られていない町内での事実を掘り起こし、広く伝えていくこと、そして、間違いを訂正していくことを確認しあいました。そして生徒たちは、当日の「青山町めぐり」にむけて、学習と準備をさらに進めていきました。
7. プロジェクトX・旧青山トンネルコースの取り組み
「青山町めぐり」当日の活動
準備を進めていた生徒21名は、いよいよ、森川先生を青山中学校にお招きし、お話を聞かせていただくとともに、フィールドワーク、聞き取り調査に出かける日を迎えました。当日の活動概略は以下の通りです。
「青山町めぐり」当日(10月7日)の活動
1. 三重県教委人権・同和教育センター森川篤實先生の講演
(旧青山トンネルビデオ視聴、森川先生の調査報告、朝鮮半島関係の歴史概論)
2. 青山町側(トンネル西側)2名から当時の聞き取り
3. 旧青山トンネル工事犠牲者の供養塔で森川先生の説明を聞く
(お話のあと、自主的に供養塔の周りのゴミ集め)
4. 青山高原三角点よりトンネルが掘られた場所、長さを目で確認
5. 白山町側(トンネル東口)3名から当時の聞き取り
6. 旧青山トンネル東口および旧東青山駅で森川先生の説明をうける
7. 石人の郷で森川先生の説明をうける
※1は中学校で実施、2〜7はマイクロバス移動
まず、青山中学校で森川先生のお話をうかがいました。それまで、自分たちが調べた資料の大半が森川先生の調査によるものでしたので、生徒たちは、たいへん真剣なまなざしで森川先生のお話を聞いていました。
そのあと、マイクロバスで中学校を出発し、工事当時(1928年〜1930年)を知っておられる青山町在住の方(2名)と、トンネルの反対側出口である白山町在住の方(3名)に、お話を聞かせていただきました。
以下に、聞き取りさせていただいた内容を簡単にまとめます。
青山町側 女性83歳(事故当時、供養された寺の現住職のつれあい)
・事故当時は小学生でした。川沿いには、たくさんの飯場がありました。
地元に宿屋がありましたが、そこには工事責任者がとまっていました。
・工事は大林組が請け負っていました。事務所の大きな看板を覚えています。
・韓国・朝鮮人労働者がたくさんいました。若い方が多かった。また、その子どもで、同じ小学校に通っている人もいました。
・事故があった日は、寒い冬の日で、住職が長靴をはいて、現場へ供養に出かけたのを覚えています。犠牲になった方は、現場で法事をし、この寺の近くで火葬にしました。法事は、白山町側、青山町側それぞ れで責任をもって行われました。
・開通式の日の上津駅での式典を覚えています。大きなスクリーンで映画を見ました。また、花火の落下傘を拾ったことを記憶しています。
青山町側 女性92歳 工事当時20歳くらい
・工事に携わった人の内、6割くらいは韓国・朝鮮人だったと思います。
若い方が多かった。
・工事の時に箕を着ていて、箕に火がつきやすく、それに火が移り、なくなった人がいたのではないだろうか。また、火薬のよる爆破で、下敷きになって犠牲になられた方もいました。
・工事現場近くまで、川沿いがずっと飯場だった。
・なくなった人は戸板で運ばれた。葬式は、朝鮮式で、前で大きな声で
泣き婆と呼ばれる人が、「アイゴー、アイゴー」と泣いていました。
・朝鮮の人はおもちが好きで、各自小さな臼をもってきて、よく、おもちをついて、食べていました。
白山町側 女性90歳 工事当時10代後半
・朝鮮半島出身の方が、たくさん働いていた。
・自分の家も朝鮮からの労働者家族(夫婦と子ども2人)が間借りしていた。つくったおかずを「ウマイゾ(日本語)」「パムル(ご飯を)チャプソー(食べなさい)」などといってすすめてくれた。
白山町側 男性79歳 当時小学生
・人の力でトンネル工事を行っていたので、たくさんの労働力が必要だった。
・朝鮮半島からのたくさんの労働者がいた。
・飯場も建っていたが、ほとんどの家に、労働者が間借りしていた。
・当時、小学校のクラスが一次的に倍以上になった。
白山町側 男性80歳 当時小学生
・朝鮮式の葬式では、お祭りのときのようなものでかつぎ、それをきれいに飾り、前で泣きやが大きな声で叫び、リンをふっていた。
当日は、聞き取りをさせていただいただけでなく、現地をフィールドワークしました。供養塔では、お花をささげ、森川先生の説明をうけ、碑に刻まれている犠牲者のお名前を確認しました。この供養塔は、国道沿いのカーブ下にあるのですが、心ない方が捨てたゴミがたくさんありました。生徒たちは、「自分の家のお墓にゴミが捨てられていたら許せない」と言い、当日、自主的にゴミ集めを行いました。
そのあと、青山高原に登り、どのような場所にトンネルを掘ったのかを、高原から見渡しました。
白山町側に行き、聞き取りを行ったあと、旧青山トンネル東口と、そのすぐ近くにある旧東青山駅跡を実際見てきました。旧青山トンネルは、1971年の特急列車衝突事故後に、複線型の新しい青山トンネルが別ルートで作られたこともあり、1976年以降、使われていません。現地に行き、当時の工事の苦労を思うとともに、犠牲者の方への思いをさらに強くしました。
そのあと、白山町の石人の郷へ行きました。石人の郷には、たくさんの石人が置かれています。これらの石人は、李朝時代(1392〜1910年)に朝鮮でつくられたもので、戦時中に、朝鮮半島から持ち出されたものと思われます。これらを数年前に引き取った今の所有者の方が、2000年に石像品を収蔵する世中博物館がソウル郊外にできたことを知り、貴重な文化遺産なので、「韓国で大切にしてほしい」という思いから、約300体の中から、博物館にない種類の70体を贈りました。2001年6月13日には、韓国駐日大使が出席する中で、記念式典が行われました。
生徒たちは、石人の郷で、森川先生から説明をうけたあと、「こんなに近いところで、国家レベルの日韓の交流があるんだ」という思いを強くし、自分たちで、さらに日韓国民交流年の意義を広めようという思いを強くしていきました。
8. プロジェクトX・旧青山トンネルコースの取り組み
「青山町めぐり」後の活動1(文化祭まで)
10月7日に「青山町めぐり」を行った生徒たちは、それまで自分たちが調べて、思ったこと、感じたこと、そして伝えたいこと、これからさらに取り組むべき事をまとめ、2週間後の青中文化祭で発表していきました。
「青山町めぐり」終了後の活動と経過
1. 当日の感想をまとめるとともに、今後の活動内容の検討・決定
(学習内容のビデオ制作、聞き取り内容のテープおこし、学習内容報告掲示用資料作成)
2. 聞き取り内容のテープおこし
3. 書籍等で関係資料集め
4. ビデオの流れ検討・決定、役割分担
5. ビデオ撮影およびその編集
「青山中学校版・プロジェクトX
韓国・朝鮮人と力をあわせて青山峠を貫通せよ
〜 私鉄史上最長のトンネル・旧青山トンネル物語 〜」
6. 学習内容報告掲示用資料作成
7. 青山中学校文化祭にてビデオ上映および取り組み概要を口頭で発表(10月25,26日)、同時に、掲示物展示(そのなかで、テープおこしした聞き取り内容も掲示)
8. ビデオを関係者に感謝の意味をこめて送る(森川先生,聞き取りさせていただいた方)
9. 町史の間違い訂正のお願いの手紙を書く(青山町、白山町、一志町)
10. 手紙を持って教師が代表で各町で町史訂正のお願い
11. 12月にPTA人権講演会で講演に来ていただく在日本大韓民国民団三重県地方本部事務局長の韓久さんに手紙を書き、ビデオを送る
12. PTA人権講演会で韓久さんをお迎えし、講演と韓国湖南右道農楽演奏を聞かせていただく
13. 白山町教育委員会より、町史訂正検討の手紙が届く
14. 民団新聞社の取材をうける
生徒たちは、まず、聞き取りをさせていただいた内容のテープおこしから取りかかりました。工事後70年以上経過している現在、当時を知っておられる方も少なくなり、お話をいただいたことの1字1句が、たいへん貴重な歴史であり、それを残さず、書き留めることが、自分たちの役割だと強く感じ、取り組みました。録音状態があまりよくなく、生徒たちは、何度も聞き直し、慎重に文字に直していきました。そこには、「やらされている」といった感覚は微塵もなく、「自分たちがやらなかったら、誰がやるんだ」という思いで、誇りを持って取り組んでいました。
自分たちの調べたことを、他の生徒や、町内の大人の方に伝える方法として、取り組んだ内容をビデオでまとめることを決定していました。当日の活動だけでなく、聞き取りについても、許可を得て、撮影させていただいていました。それらを、NHKで放送されている「プロジェクトX」風に40分のビデオにまとめました。
ビデオでは、生徒21名全員が出演し、ビデオ内の解説やナレーションを全員で分担しました。
ビデオは、旧青山トンネルについての概説から始まり、小泉首相の訪朝時の謝罪から、生徒の解説による、日本と朝鮮半島との歴史解説にうつります。そのあと、聞き取りで5名の方から語られた貴重な証言を入れ、現在の旧青山トンネルや供養塔の映像にうつります。ラストでは、石人の郷の映像と鶴橋(大阪府)のコリアタウンの映像を入れ、日韓がさらに交流を深めることへの願いを込めました。
これらのビデオは、青山中学校文化祭において、体育館のスクリーンに大きく映し出され、全生徒がしっかり見入っていました。
9. プロジェクトX・旧青山トンネルコースの取り組み
「青山町めぐり」後の活動2(町史訂正への行動)
文化祭で、ビデオ上映、および資料や聞き取り内容の展示発表を終えた生徒たちは、関係された方々にビデオを贈るとともに、青山町、白山町、一志町の役場に、町史訂正のお願いの手紙を書きました。
「町史が間違っているのは許せない。正しい歴史を伝える使命が町史にはある。町史訂正は自分たちの願いでもあり、お世話になった森川先生の願いでもある。間違った町史は、訂正してもらうのが当然だ。」というのが、生徒の純真な思いで、手紙を書いたことは、生徒にとって、自然であり、当然の行動でした。
生徒たちは、手紙を直接役場に届けたかったのですが、授業があり、日程の調整がつかず、生徒の気持ちを代表して、私が各町に手紙を持参し、生徒の思いと、取り組み内容を伝えさせていただきました。
しばらくして、白山町教育委員会の方が2名、青山中学校に手紙を持って来校されました。
「ほんとうは、直接、生徒の皆さんに、手紙の返事を口頭で伝え、説明させてもらうべきなのですが、授業があると思いますので、この手紙を生徒のみなさんに、お渡しください。」と告げて、帰られました。
手紙には、概略、次のようなことが書かれていました。
「三重一志 白山町文化誌は昭和48年に刊行されました。現在の白山町となっている地域の歴史を知る上で、基本的な文献のひとつです。しかし、その刊行から約30年たち、現在の研究からみれば、修正、訂正が必要な部分もあります。このような部分は、改めて調査研究を実施し、新しい町史の刊行を目指しています。
ご指摘いただいた工事での死者の数が8名となっていることについては、当時の執筆者が故人になられているので、理由は分かりませんが、犠牲者の数は正しくは16名であり、そのうち8名が朝鮮半島出身の方であることは、追跡調査等から、現在では、周知の事実です。皆さんから指摘いただいた部分を訂正し、これから白山町がめざす新しい町史では、正確な歴史事実の普及に努めます。」
まさに、生徒たちの願いが、1つの町を動かした瞬間でした。
10. プロジェクトX・旧青山トンネルコースの取り組み
「青山町めぐり」後の活動3(韓久さんとの出会い)
青山中学校では、例年、PTA活動の1つとして、12月に全生徒、全保護者対象にPTA人権講演会を開催しています。本年度は、PTA役員の方と相談し、民団三重県地方本部事務局長の韓久さんにお話と、韓国湖南右道の農楽公演をしていただくことを決定していました。
10月に文化祭を終えた直後、生徒たちのビデオを持って、韓久さんのところへ、打ち合わせに行きました。私の方から、校内人権通信を使いながら、青山中学校の本年度の活動・取り組みを説明するとともに、文化祭で上映した、「青山中学校版・プロジェクトX」のビデオも見ていただき、
生徒の思いも知っていただきました。
12月7日は、青山中学校PTA人権講演会の日。韓久さんと、農楽演奏していただく四物遊撃隊(サムルゆうげきたい)メンバーによる公演が始まりました。公演の冒頭、韓久さんが言われました。
「本日、この青山の地に、この青山中学校に、特別な思いで来ました。皆さんの、旧青山トンネルの取り組みのビデオを見させていただきました。
涙が出てきました。今日行う農楽演奏が、トンネル工事犠牲者に届きますように。」
公演では、生徒たちもチマ・チョゴリやパジ・チョゴリを着させていただき、また、チャンゴやチンなどの演奏指導をしていただき、生徒、教職員、保護者、四物遊撃隊が一体となって、農楽演奏に参加しました。日韓国民交流年だからということだけではなく、生徒たちの思いから、みんながつながった大きな公演会でした。
11. プロジェクトX・旧青山トンネルコースの取り組み
「青山町めぐり」後の活動4(「民団新聞」の取材)
年があけ、民団新聞社から青山中学校に取材希望の電話が入りました。民団新聞社と話をする機会があった韓久さんが、青山中学校の取り組みを紹介されたのでした。
取材は1月24日に行われました。当日は、民団新聞社編集次長である李清鍵さんが、韓久さんの案内のもと、供養塔を取材された後、両名で来校されました。
12月の青山中学校での公演のときには、バス通学生のバスの時間等の問題により、韓久さんとプロジェクトXに取り組んだ21名の生徒がじっくり話をする時間をとることができませんした。しかし、この取材の時は、生徒と韓久さんとお話をする時間がたくさん持てました。韓久さんは、次のように言われました。
「12月に公演に来させていただいたときも、この青山へは特別な思いで来させてもらったことを言いましたが、当日は「プロジェクトX」のみなさんと詳しく話をする時間がなかったので、改めて、お礼を言います。
私(韓久さん)の父は1925年に日本にやって来ました。旧青山トンネル工事が始まる3年前です。ということは、旧青山トンネル工事で働いておられた韓国・朝鮮人の方も、私の父と同じくらいの年齢です。私の父は、土地調査事業などで、土地を奪われ、働き口を求めて日本にやって来ました。工事で働いておられた方も同じだと思います。たいへん感慨深いものがあります。
ビデオの中で、トンネル工事で亡くなられた方への韓国式の葬式のことを証言されていました。これは、若い在日韓国・朝鮮人の世代では、知らない部分もあります。このことを思い出させてくれた証言を見たときには、涙が出ました。
また、工事で働いておられた韓国人家族に部屋を貸していたという白山町側の証言の中で、その方が覚えておられる朝鮮語を話されていました。実はその話された言葉は、韓国の1つの方言なのです。それを聞いて、少なくともその方は、韓国のどのあたりから働きに来られていたのかが想像できます。このビデオは、そういう意味で、非常に貴重で、大切にしていきたいビデオなのです。
青山中学校へ公演に来る直前にも、公演メンバーといっしょに、このビデオを見ました。メンバーの中には、泣いているものもいました。
公演に来させてもらったあと、町史の記述の間違いを訂正する手紙に対して、返事が返ってきたことも聞かせてもらっています。今回、自分達で調べ、知ったことをもとに行動を起こされたことには感動しています。ある意味では、今まで、大人ができていなかったことをみなさんがやったのです。
私は、青山中学校での公演以降も、いろんなところで公演や講演をさせていただいています。その中で、青山中学校の取り組みを紹介させてもらったり、皆さんのビデオを上映したりさせていただいています。みなさんの思いが広がり、さらに日本と朝鮮半島が親密な関係になっていけばと、私も心から願っています。本当にありがとう。」
12. 今後について
旧青山トンネル工事は1928年に始まりました。本年はちょうど、トンネル工事開始から75年目にあたります。今、このことをふまえて、供養塔において、慰霊祭を行うことが計画されています。生徒たちは、「ぜひ参加したい」という思いを強くしています。
また、旧青山トンネル工事と同じように朝鮮人労働についての町史の記載の間違いが、他地域の工事においても見られます。それらについても、青山中学校の取り組みをもとに、または、ビデオを見て、何かが動き出そうとしていることを韓久さんから聞かせていただいています。
今回、生徒たちが取り組んだような、あまり知られていない、または、時代の流れの中で忘れ去られようとしている歴史は、全国各地にたくさんあるのではないでしょうか。そして、その1つ1つの歴史が、それぞれの人生を含んで存在したのではないでしょうか。そこには、国を越え、人種を越えて、ともに生き、ともに取り組み、懸命に生きた記録があるでしょう。
戦時下の中で、または、戦後の社会の動きの中で行われてきたことには、決して許されないことがたくさんあります。その一つ一つをうやむやにしたり、歴史の中で埋もれさせるのではなく、各地に埋もれた、それぞれの歴史を、今掘り起こし、しっかり検証し、反省すべきことはしっかり反省し、謝罪すべきところはしっかり謝罪すべきではないでしょうか。そして、その取り組みの中で、人種や国境を越えた交流、つながりがさらに強まるのではないでしょうか。歴史の中で、誰が悪いとか、どの国が悪いといった話が耳に入ってきます。今、必要なことは、そのような議論ではないはずです。
数年前に、取り組むべき重要な問題から逃げた私でした。こんないい加減な私でしたが、生徒たちは、大きな愛で私を包み、思いの出し方、表現の仕方を教えてくれました。まさしく、私は生徒の誠実さと、森川先生や韓久さんとの出会いで、過去の反省を少しはいかせたように思います。
私をかえてくれた、生徒たちの純真であり、確信にせまる取り組み、思いが全国にも少しでも広がればと思い、ペンを取らせていただきました。このような場を与えていただき、感謝しています。ありがとうございました。