渤海の歴史と遺跡
   
    東アジアの国際秩序と渤海の建国
徐栄洙 (檀国大 教授、高句麗研究会理事)

渤海の建国と関連して、従来の主な関心は大祚栄をはじめとする建国集団の民族的性格と建国時期及び位置の問題など であったが、渤海建国の要因と建国の意味を、東アジアの国際秩序と関連して、よりマクロ的な立場から再検討する必要がある。 渤海が建国された7世紀後半、東アジアの国際情勢は668年の高句麗滅亡と新羅の朝鮮半島統一により引き起こされた一つの転換期が 終わろうとしている時点にあった。

買肖城の戦いと伎伐浦海戦にて新羅に敗れた唐は、676年、朝鮮半島から撤収して安東都護府を遼東に移し、再び朝鮮半島に 進出する計画を立てたが、新羅の抵抗はもちろん、西側には吐蕃の攻勢と北には突厥の圧迫があったためこれを放棄、 北東アジアのいろいろな勢力の通り道である遼東地域を安定させるのに注力するだけであった。

北アジアの形成は隋唐帝国により瓦解した突厥が再興し、680年代には西は天山山脈から東は興安嶺を越え、満州西部一円にまで 勢力を伸ばし、唐を圧迫して来た。突厥の再興により、満州西北には庫莫奚、契丹、室韋などが新しく動き始め、高句麗滅亡 以後、満州東部地域は靺鞨各部のうち最強だった黒水靺鞨が勢力を伸ばし南進したが、 691〜692年頃、唐に敗れて後退した。 その後、高句麗の流民とその統制下にあった靺鞨部族が遼東、東満州、営州などで新しい集団を形成し始めたが、統一した求心体 を形成することは出来ず、バラバラの状態にあった。新羅の場合も朝鮮半島で唐軍を撃退した後、新しく併合した地域と 住民を経営して対内的体制整備に注力したのは、西北地域や満州に軍事的進出をすることが出来ない状態だったからである。

このように676年以後、東満州一円は、唐、突厥、新羅のうちどこも勢力を伸ばせずにいる国際的な力学関係により、 一種の力の空白地帯となっていた。このような北東アジアの情勢の中、大祚栄を中心とする営州地域にて立ち上がった 高句麗流民の連合勢力が問うに対する抗争を続けながら東進し、渤海を建国、新しい力の求心体として登場、建国以後、 短い期間に急速に成長して北東アジアの新しい強国として浮上した。 要するに渤海の建国は7世紀に始まった一つの転換期が終結し、東アジアの国際秩序が新しく再編されることを意味するものであった。

注目されるのは、渤海の建国が北東アジアに対する唐の支配過程で起きているという点である。唐の東方遠征は、 自国の安全に脅威となる新しい統一勢力が登場するのを事前に阻止するためのものであったが、 高句麗の滅亡により初期の目的を達した唐は、冊封外交を通じた伝統的な以夷制夷政策を取るよりは、都護府と羈縻州を設置 してこの地域を直接支配しようとした。

このような唐の政策は、漢の郡県化政策に対比される。しかし新羅と高句麗流民の抵抗及び吐蕃、突厥、契丹などの北方勢力 の南下など、国際情勢の変化で、唐のこのような政策は漢の郡県化政策よりも短い期間に終焉を告げ、冊封外交を通じた 伝統的な以夷制夷政策に戻り、周辺勢力との共存を模索するしかなかった。

渤海の建国は東アジア交渉史の側面から見ると、唐に体現される中国的世界秩序の拡大と挫折という二重構造の中から 起こっている。渤海の建国により、東アジアの国際秩序は中原王朝と北方勢力及び東方勢力の三角体制で力の均衡 をなすようになり、以後、冊封体制と表現される唐を中心とした東アジア国際秩序の正確を規定することになる。 このような理由で、渤海は東アジアの国際秩序の中で中核調整者としての一角をなすことになる。

   


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