渤海の歴史と遺跡
   
  渤海主要年表
 


 

西暦

主要事件

渤海王

668 高句麗・平壌城陥落、鴨緑江以北の半分以上の城は抗戦  
669 高安勝は4000戸余りを率いて新羅に亡命、剣牟岑と亡命政府樹立
670 高句麗・新羅連合軍が鴨緑江を渡り、唐軍を撃破
677 安東都護府を再び新城(現在の遼寧省撫順)に移す
宝蔵王、唐から帰還し、小高句麗を建設後、復興運動を図る
686 唐は宝蔵王の孫・高宝元を朝鮮郡王に奉じ、高句麗 流民達の反発を融和しようとしたが、推進出来ず
698 大祚栄が東牟山に移り、振国を建てる 高王
699 唐は宝蔵王の子・高徳武を安東都督に任命したが、この時から高句麗の旧住民は全て渤海に吸収
713 国号を渤海に改める
719 高王が死亡し、子の大武芸が即位する
732 渤海が張文休と水軍を送り、唐の登州を攻撃。他方、陸路で馬都山を攻撃 武王
733 唐の要請により新羅が渤海の南側を攻撃したが、成果なく退却
旧国から顕州に遷都する
737 武王が崩御し、子の大欽茂が即位する
739 岨要徳を日本に使臣として送る(2次)。この時、彼の職責は若忽州都督であったが、 若忽州は木底週・玄莵州とともに62州を設置する前の高句麗式名称である 文王
756 前年に起こった安禄山の乱を避け、顕州から上京に遷都する
759 この期間に日本で渤海を「高麗」と呼ぶ
762 唐で王を渤海郡王から渤海国王に奉ずる
771 壹萬福を日本の使臣に送る(7次)。この時、持参した国書にて天孫を自称し、 両国を舅婿の関係に規定した
776 史都蒙を日本に使臣として送る(9次)。この時、彼が南海府吐号浦から出向したと され、初めて5京の名が出た
777 貞恵公主(737〜777)が死亡する。780年11月に葬式
780 東京から上京に遷都
790 新羅が伯魚を渤海に使臣として派遣
792 貞孝公主(757〜792)が死亡する。同年11月に葬式
793 文王が死亡し、弟の大元義が即位
793 大元義が1年で死去、大宏臨の子・大華璵が即位 大元義
793 即位後に東京から上京に遷都 成王
794 成王が崩御し、文王の子・大嵩が即位 康王
795 呂定琳を日本に使臣として送る(14次)。この時の国書にて康王が「やっと命を取り留め、 王位についた」と言及
798 日本から6年に一度づつ使臣を派遣しろと通報
大昌泰を日本へ使臣として送る(14次)。この時の国書で、康王が「教化に従う真面目な心は高氏からその足跡をたどることが出 来る」と表記
818 簡王が1年で崩御し、従夫であり、大野勃の4世孫である大仁秀が即位 宣王
818〜820 新羅方面と遼東方面を攻略
828 日本が渤海・新羅との私的な貿易を禁止
832 唐の使臣・王宗禹が帰国し、渤海に左右新軍、左右三軍、20司を置いた事実を絵に書いて報告 大葬震
834 過去に許王府の参軍・騎都衛であった趙文休の母・李氏が碑像を作る
唐の使臣・張建章が渤海に到着、翌年帰国
841 賀福延を日本に使臣として送る(24次)。この時送った中台省牒写本が日本に残っている。 この中で、渤海と日本を遼陽と日域に対比
849 王文矩(20次)が日本から帰国した時にもらって来た国書にても 渤海と日本を遼陽と日域に対比
845〜 渤海人、唐の賓貢科(外国人向け科挙)に及第し始める
859 渤海の使臣・烏孝槇(26次)が日本に長慶宣明暦を伝え、日本で1684年まで使われる 大虔晃
861 渤海の使臣・李居世(27次)が日本に不頂尊勝陀羅尼経を伝える。現在、石山寺に残る
872 烏孝度が唐の賓貢科に及第する。この時、新羅の李同より上に名が出る 大玄錫
897 唐の賀正使として行った王子・大封裔が新羅よりも上席を要求したが、唐が許さず
906 烏光賛が唐の賓貢科に及第する
908 日本の大江朝江が渤海使臣(33次)に渡した文書にて、渤海の使臣を「遼水の客」と表現
911 渤海が新羅などの国々と秘密裏に連携を結ぶ
918 王建が高麗を建国
925 将軍・申徳など500名が高麗に行く。この時から渤海人の高麗亡命が始まる
926 渤海が契丹に滅ぼされる
926 後渤海国建国。契丹が東丹国を建設  
935 後渤海国の王子・大光顕が主力を率いて高麗に投降し、滅亡。 農民達は旧来の地に残り、後に女真に吸収される
定安国建国。
985 定安国、5ヶ月の戦闘の末、契丹に滅ぼされる。
996〜1116 女真に吸収された流民達は、何度か復国運動を試みる

社団法人 高句麗研究会