渤海の歴史と遺跡
   
  渤海の領土はどこまでか? (2) - 渤海の西側の国境;
 


- かつて渤海は遼東半島を支配した。

 

渤海の西側領域問題は、遼東の支配如何に直結する。以下、唐の遼東支配は中国側の記録によるとしても、渤海が成立してから6年目の714年、遼西地方に 完全に撤収しており、いろいろな情勢から見て、それ以前にも実際に掌握出来なかったのである。以下、簡単にこれに関する資料を見てみよう。

1. 安東都護府は渤海建国以後、遼東から消えた。

 

1) 686年、宝蔵王の孫・高宝元を朝鮮郡王に奉じ、安東都護府の昔の住民を任せ、 統治させたが、結局実現出来なかった。(旧唐書高麗伝) ---- この時、渤海が成立した。.

2) 699年、再び宝蔵王の子・高徳武を安東都督に任じ、本蕃を統率させた。 この時から安東(都護府)にいる高句麗の旧住民が次第に減少し、突厥、靺鞨等に流れるや、高氏の軍はついに終焉を迎えた。(旧唐書高麗伝) --- 渤海が成立してから、形式的にでも安東都護府を維持しようとしたが、失敗したという記録である。ここで靺鞨に流れた高句麗人達は、まさに渤海に吸収 されたことを意味し、少なくともこの時からは遼東半島が渤海の土地になったということである。

3) 714年 - 唐、遼西地方平州に安東都護府を設置する。

2. 732∼733 渤海の登州攻撃の際、遼東には唐の勢力がなかった。

732&年9月、渤海の将軍・張文休が率いる渤海遠征軍は、海路、唐の登州を攻撃し、 登州刺使・韋俊を殺害する。もし、賈耽の道里記に記されているように鴨緑江河口から130里程上った泊灼城が国境線であれば、唐を唐を侵略する大部隊が 鴨緑江河口を守る唐軍を打ち破らなければならなかったはずだ。渤海軍が現在の山東半島にある登州を攻撃しようと思えば、必ず鴨緑江河口を出て 海岸線に従って航海し、遼東半島の先から古群山列島を通らなければならない。もし唐が遼東半島を支配していたのなら、渤海軍の大船団が 何の抵抗もなく登州を攻撃することは出来なかったであろう。これは、遼東半島に唐の勢力がなかったことを証明するものである。 渤海が遼東半島を攻撃せずに登州を攻めたことも、遼東半島を攻める必要がなかったからである。 もし遼東半島に唐の勢力があれば、そこからまず攻めたはずである。渤海は海軍の出兵とほとんど同じ時期に陸路で遼西地方を攻撃した。 すると唐は問題を起した大門芸を幽州に送り、軍士を集めて戦わせたが、幽州節度使に16州と安東都護府(平州)の兵力までも統率させた (資治通鑑巻213 唐記玄宗開元20年)。一方、唐は唐に来ていた新羅の王族・金思蘭を新羅に送り、南側から渤海を攻めるようにした。(三国史記巻8、新羅本記聖徳王32年7月)

3. 遼史 地理志に反映された遼東半島の渤海領土

遼東半島であることが確実なもののみ、いくつか見られる。(遼史 巻38)

東京遼陽府 - 本来、朝鮮(檀君朝鮮)の土地である。(本朝鮮之地)。 …… 唐の高宗が高句麗を平定し、ここに安東都護府を立てた後、渤海・大氏の 所有となった。(唐高宗平高麗 於此置安東都護府, 後爲渤海大氏所有)

辰州奉国軍節度 - 本来、高句麗・蓋牟城。唐の太宗が李世勣に会い、蓋牟城を撃破したというのがここである。渤海が蓋州と改名した。

盧州 - 本来は渤海の杉盧郡である。昔、5つの県からなっていたが、 いずれも廃止した。鉄州は本来、漢の安西県であったが、高句麗の時に安西城になった。唐・太宗が攻めた時、陥落せず、薛仁貴が白衣を着て 城を上ったのもここである。 .....渤海の頃、州を置いたが、本来、4つの県である。

巖州 白岩郡 - 本来、渤海の白岩城。太宗が奪い取って瀋州に属させた。



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